2025年9月9日、台湾のポータルサイト・vocusに「『鬼滅の刃』で人生を考える」との記事が掲載された。
記事は、「『鬼滅の刃』は、華麗な戦闘シーンと残酷な犠牲の間で、人は苦難や喪失の中でどう生き抜くのかを描いた作品だ。
その上で、「炭治郎は家族の惨死と妹の鬼化という苦難を背負いながらも、善良さと柔らかさを失わなかった。彼の存在は、トラウマを経た成長の体現だ。傷を受けたとしても、自己と他者に対して善意を選ぶのだ。炭治郎の言葉はしばしば簡潔で直截的であり、世間を知らない理想主義を感じさせるが、これは欠点ではなく、人生の知恵は複雑な論述にのみ宿るわけではなく、時に素朴な言葉で人の心を支えることもあることを示している」と論じた。
また、「炎柱・杏寿郎の生き方は、命そのものを燃え尽きるものと捉える。彼は『老いることも死ぬことも、人間というはかない生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ たまらなくいとおしく、尊いのだ』と語り、人生の長さではなく全力で生きることの意義を体現している。結末は悲しいが、彼の生命の厚みは長さをはるかに超える」と評した。
さらに、「霞柱・時透無一郎(ときとうむいちろう)は、記憶を失った後、冷淡で疎外的になるが、戦いや絆を通じて記憶を取り戻すことで、自己を再発見する。これは心理学者のカール・ユングが提唱した『個体化のプロセス』を思わせるものだ。失われた部分を直視し、忘れ去られた自己を人生に統合して初めて、真に完全な自己となったのだ」とした。
記事は、「『鬼滅の刃』に登場する鬼は、人間性の抑圧された側面を具現化した存在だ。多くの鬼は愛や承認、苦痛の回避を求めた結果として生まれ、悪は生まれつきのものではなく、理解と救済を得られなかった絶望の累積として憎めない存在となる。鬼とは人間性の未承認の側面、すなわち人心のもう一つの投影なのだ」と言及した。
そして、「無限列車編に登場する十二鬼月の下弦の壱・魘夢(えんむ)は、人に幸福な夢を与えながらも、最も幸福な瞬間を無慈悲に破壊する。その残酷さは単なる殺りくではなく、心理学的困難を象徴する。持ったことのない幸福よりも、短い幸福を経験した後に奪われる痛みの方が大きい。魘夢は人々の理想化された夢への渇望を逆手に取り、現実から逃れる者を翻弄する存在だ」と説明した。
また、「遊郭編に登場する十二鬼月の上弦の陸・堕姫(だき)は、華やかな外見を持ちながら心は欠落している。社会の期待に沿って物化され、美しさの裏には孤独と見捨てられる恐怖が潜んでいた。彼女の残酷さやわがままは単なる悪ではなく、自己価値の確立の欠如による極端な補償だ。環境に長く『利用される存在』と見なされた人間は、純粋に愛される価値を信じられるのかを考えさせられる」と述べた。
さらに、「竈門炭治郎 立志編に登場する元十二鬼月の響凱(きょうがい)は元作家で、自分の作品が評価されず無視されたことで鬼となった。
記事は、「『鬼滅の刃』は常に死に直面させる。壮絶に散る者もいれば、悔いを残して去る者もいる。しかし死は無意味ではなく、目の前の呼吸や温もりを大切にするよう促すものだ。家族や社会の強い絆は、逆境に対する緩衝要因となり、暗闇の中に光を見いださせる。鬼との戦いは、内なる悪魔との格闘であり、恐怖や怒り、貪欲など抑圧された陰影を象徴する。それを直視し受け入れることで、真の自由を得られる可能性が生まれるのだ」と強調した。
その上で、「命は痛むが、痛みの中で慈悲や他者の成長を生むことができる。死は全てを奪うが、燃え尽きた魂は不滅の火種を残す。人心は堕ちることもあるが、理解され抱擁されれば、光に戻る可能性もある。人生は『鬼滅の刃』の戦場のように完璧ではなく喪失に満ちている。