ドラムから離れて10年目を迎えた打楽器のレジェンドが、ブリティッシュ・プログレッシブの三大グループ時代から、ジャズへ移行したアースワークスの結成などを振り返る。

音楽界において引退とは、絶対的な概念ではない。
しかし現場を離れてから10年が経過しようというビル・ブルーフォードにとっては、言葉通りの意味を持つのかもしれない。2009年に引退を宣言したプログレッシブ・ドラマーのレジェンドは、以来公の場では一度も演奏していない。そして今後も復帰するつもりはないようだ。イエス、キング・クリムゾン、ジェネシスに参加した後は、アースワークスを結成し、長期間に渡りジャズを演奏してきた。ブルーフォードは、ローリングストーン誌の選ぶ史上最も偉大なドラマー100人の16位にランクしている。

「ロックだけでなくあらゆる音楽をやろうと思っていた。
でも実際はロックがメインになった。ドラマーとして、選んだものに全力で取り組むべきだと思った」と彼はイングランドのサリー州にある自宅で、ローリングストーン誌との電話インタビューに応じた。「ロックであれジャズであれ、生半可ではいけない。ジャズをやる、あるいはロックをやる、と覚悟を決めるべきだ。または私が常にそうだったように、その中間にいるのもひとつのやり方だろう。今はどんな音楽であれ、真剣に取り組めるような状態ではない。
ほかにやりたいことがある。本を執筆しながら孫たちと過ごしたりする方が大切なんだ」

彼は執筆活動に忙しい。2009年に深く掘り下げ赤裸々に語った自叙伝を出版した後、2018年には刺激的かつドラミングにおけるクリエイティビティを探求するのに役立つ『Uncharted』を出している。同書には、2016年に彼がサリー大学で音楽の博士号を取得した際の研究成果が含まれる。また家族と過ごす時間の合間には、1970年代後半に結成したフュージョンバンド「ブルーフォード」や、オランダ人ピアニストのミケル・ボルストラップとのデュオ、さらにアースワークスなど、過去に出した多くのソロ作品のリイシューにも取り組んでいる。

「いわば”自分のレガシーを作る”作業に巻き込まれていたのではないかと思う」とブルーフォードは言う。
「実はかなり感傷的になっていた。自分の作品を後世まで残したいという思いが弱いと認めざるを得ない」

ブルーフォードによる最近のアーカイブ・プロジェクトのひとつに、『Earthworks Complete』がある。アースワークスによるすべてのスタジオ及びライブ作品に加え、多くのボーナスマテリアルも含む豪華ボックスセットだ。20枚以上に渡るCD/DVDのコレクションには、ブルーフォードのシモンズ・エレクトリックドラムを中心に作られたユニークで幅広い音楽志向を持つグループから、より力強いポストボップのアコースティックバンドへの変遷が記録されている。もっと広い目で見ると、ブルーフォードがどれだけジャズに傾倒していたかを理解できる。さらに、絶頂期にあったイエスを離れてキング・クリムゾンへ加入した時から常に、ブルーフォードは自分の信念に従って生きるミュージシャンだったこともわかる。
彼は1969年に初めてキング・クリムゾンと出会って衝撃を受けた。その後、1997年まで断続的に同バンドでプレイすることとなる。

ローリングストーン誌とのインタビューでブルーフォードは、イエス脱退に後悔のなかった理由、キング・クリムゾンでプレイすることのスリルとフラストレーション、ジェネシスへの短期間の在籍、ロックからジャズへの変遷、「プログレ(prog)」という言葉に対する複雑な心境など、さまざまな話題について語っている。

ー最後に本格的にドラムを演奏したのはいつのことですか?

10年前だ。正確に言うとそれは正しくないな。引退した年にモータウンの曲をいくつか演奏した。
モータウンの音楽をやるのは、とにかく楽しい。地元でモータウンのバンドを組んで、数週間楽しんだ。わずか2、3回だったがプライベートなイベントもやった。ホーンやら何やらを集めた9ピースのバンドで、シンガーたちも凄かった。素晴らしかったよ。

ただそれ以降は、一切演奏していない。
おかしいと思う人も多いかもしれないが、自分としてはまったく違和感がない。

ーお気に入りのモータウンの曲は何でしょうか?

(笑)どうかな……「(I Heard It Through The)Grapevine」かな。マーヴィン・ゲイのバージョンだ。とにかく凄い曲だ。

ー最新のボックスセットは、1987~2000年代中頃までのアースワークスをカバーしています。でもティーンエイジャーの頃からジャズにも深く傾倒してきましたよね。当時はジャズプレイヤーを目指していたのでしょうか。もしかしたらロックにまったく関与しないこともあり得たと思いますか?

ロックかジャズかなどと自分がはっきり考えていたかどうかは、定かでない。たしかにロックは流行っていた。イギリスでは当時、いわゆる「ビート・ミュージック」が流行っていた。スウィンギング・ブルー・ジーンズなどリヴァプールのミュージシャンやビリー・J・クレイマー、それからもちろんビートルズも。私の周りには大人が多く、リヴァーサイド・レコードの作品などをカリフォルニアから輸入していた。そう、(アート・)ブレイキーや(マックス・)ローチなどだ。それまで聴いていたものよりずっとエキサイティングだった。私は聴いてすぐに、ドラマーがどう演奏しているかを理解できた。今でもポピュラー・ミュージックでよく使われる反復の技法には慣れない。そしてジャズとは対照的な存在のいわゆるロックやポップには、インタラクションが欠如している。だから自分の好みはすぐに決まった。

ところが1968年、すべてが変わった。節目となった年だ。とても重要な年だった。ロニー・スコット・ジャズクラブでジミ・ヘンドリックスがローランド・カークと共演するのを観た時は、シャツを剥ぎ取りたくなるほど興奮した。新しい何かが生まれていたが、私自身はそれが何か分からなかった。ロックやジャズで食べていくということが何を意味するのか、当時は理解していなかったんだ。まだ16か17歳くらいでイギリスのクラブに通っていたし、自分の職業について真面目に考えたこともなかった。もしもその頃私がドラマーになりたいなんて言ったら、父親は激怒していただろうね。

ーイエスのデビューアルバムから今年で50年になります。当初からバンドのトレードマークとなるサウンドの基本となる要素が既にできあがっていたことに感銘を受けました。『Close to the Edge』とまでは行きませんが、ロック・ミュージックにおいてとても複雑かつ先進的な音でした。いったいどのように初期の段階からそのようなサウンドを確立したのでしょうか?

はっきりとはわからない。ジョン・アンダーソンのお陰じゃないかな。彼はたしかハンス・クリスチャン・アンダーソンとかいう名前でしばらくポップシンガーをしていたと思う。それが上手く行かずに彼は考えた。「もっと冒険的な音楽を作ろう。とにかく自分が作りたい音楽を。クラシック音楽の要素も入れよう。バンドを結成してビーチ・ボーイズのように歌い、フィフス・ディメンションをカバーするんだ」ってね。

多くの人は、イエスがカバーバンドだったことを忘れているのではないだろうか。当時お決まりのビートルズの曲や、クロスビー&スティルス、フィフス・ディメンション、時には『ウエスト・サイド・ストーリー』などのカバーから始まったんだ。我々には共通のレパートリーというものがなく、それらの楽曲を覚えていった。ブラック・サバスをはじめとする多くのバンドがバーミンガムの同じ街や、デトロイトなどから出てきた。その点、我々はまったく違っている。イギリスのまったく違う街のまったく異なるカルチャーがバックグラウンドだった。だからリズム&ブルーズをベースとした当時流行りの音楽カルチャーとは一線を画していたんだ。我々は何かを習得してそれをアレンジし、その過程でオリジナリティを確立していった。

ーイエスのオリジナル作品の中に、躍進のきっかけとなった楽曲はありますか?

あると思う。我々はよく、最高とは言えないがまあまあの出来のオリジナル曲をいじくり回していた。長い間考えていたんだが、本当の意味でバンドの原型が出来上がったのは、アルバム『Fragile』(1971年)に収録された「Heart of the Sunrise」だったと思う。この楽曲にはすべてが詰まっている。『Close to the Edge』やその他の自分たちの作品を凝縮したような曲だった。8分かそこらの曲でも、自分たちにとっては長い曲だと思えた。ドラマチックで荘厳な曲で、どこか非現実的でもある。そして、やや女性的なボーカルによるイギリスの牧歌的な歌に展開する。ありとあらゆる断片がひとつに収めされていた。荒削りだが、すべてがここにある。「Roundabout」の方が、例としてはふさわしいという意見もあるだろう。いずれにしろ我々は、この2曲をきっかけに独り立ちできるようになった。

ーイエスの初期のアルバムでのあなたの演奏を聴くと、ジャズに傾倒していたことがよくわかります。ロックにジャズの要素を意識的に取り込もうとしていたのでしょうか?

私はこれしかドラムの演奏方法を知らない。他に選択肢がないんだ。これ以上ハードに叩いた経験もないし、テキサスのリズム&ブルーズのドラマーのように演奏したこともない。レコードで聴いたことのあるドラマーたちのプレイをミックスして、自分のスタイルを確立したんだ。バンドのメンバーも自分自身もそれが気に入ったし、自分が興味あるものすべてを取り込んだ。こうしなければならないというものはなかったし、すべてが完全にオープンだった。ドラムでは、自分の求めるものすべてを表現できると思っていた。

どれほど我々が純粋だったか、どれだけ我々が若かったか、どれだけ早く物ごとが進んでいったか、どれだけ早く我々が学んでいったかを説明するのは難しい。当時は「グルーヴ」について語る者はいなかったし、グルーヴなどという言葉も存在しなかった。いつそんな言葉が生まれたのかは定かでないが、きっとアメリカから来たのだろう。このイギリスでは、グルーヴが話題に上がることはなかった。我々は今でもグルーヴというよりも「スウィング」しているんだ。

ー特徴的なスウィングは、あらゆる世代のイギリスのロック・ドラマーたちに共通しているように思います。1968年にイエスは、ロイヤル・アルバート・ホールで行われたクリームのフェアウェル・コンサートでオープニングを務めました。ジャズとロックとの融合という意味では、ジンジャー・ベイカーから影響を受けたでしょうか?

たしかに影響を受けたし、彼のプレイスタイルは大好きだ。彼はとにかく凄くて、サウンドもビッグで厚みを感じる。アート・ブレイキーのように、彼のドラムは人を感動させられる。腹に響いて来るんだ。とても素晴らしい。惚れ惚れする。それに比べると、当時流行っていたリヴァプールやイギリス北部のビート・ドラムなどは軟弱に聴こえる。だから若い頃は、たしかにジンジャー・ベイカーに憧れた。大きめのライド・シンバルを90度にセッティングし、タバコを口にくわえながらプレイするスタイルを真似たいと思った。彼はとても重要な存在だった。

ー彼とは直接の知り合いでしたか?

いいや。でも彼のことは知っている。話しかけるには畏れ多い存在だった。彼とは顔見知りではあった。彼の方も、このガキが誰だか少しは知っていただろう。自分が15、6歳で相手が21歳だと、大きな隔たりを感じるものだ。しかし彼のプレイは好きだったし、60年代半ばの彼はとにかく凄かった。だから彼が亡くなってしまって残念だ。とはいえ、彼はとても気難しい人間だったろうと思う。

ーあなたの自叙伝によると、アルバム『Close to the Edge』制作中のスタジオでのやり方に飽き飽きしていたように感じます。一方で『Fragile』の頃はバンドに満足していたようです。

(笑)私が満足することは滅多にないからね。アーティスト的な使命感から満足感を得られるという訳でもないと思う。クリエイティブな人間は少しでも前進していないと満足感を得られない。だから私は何かが遅すぎると感じた時は、まるで馬のようにイライラする。私は先を急ぎすぎているとよく言われる。もっとスローダウンすべきなのだろう。イエスのペースに合わせてゆっくり待つべきだった。キング・クリムゾンの時もそうすべきだったろうか。いや、私がキング・クリムゾンから追い出されたのだ。あるいはキング・クリムゾンの方が崩れていったのかもしれない。今から思えば、自分はすべきことをしている。自分は自分なのだ。『Close to the Edge』が完成に近づくにつれ、他のメンバーのやり方に我慢ならなくなっていった。クリス・スクワイアがベースのチューニングを始めたんで、ソファで眠って午前3時頃に起きてみると、彼はまだ次の弦をチューニングしていた(笑)。

その頃私は21か22になっていて、もうたくさんだという感じだった。それまで私が共演したプレイヤーはたった4人で、イエスと一緒にやっている間に他で演奏したのは1度か2度しかない。とにかく私は未熟だったから、どんなジャンルの誰と共演しても勉強になった。『Close to the Edge』の終盤はそのように感じていた。他のメンバーはまた長い時間とお金をかけて次の作品を作ろうとしていたが、私は永遠に同じことを繰り返すのが嫌だった。だから私は当然、その場を去った。離れて良かったと思う。

ー若者にしては大人の決断だったと思います。芸術よりも安定した生活の方を取ろうと考えたことはありませんか?

私はとてもロマンチックな人間だった。多くのアーティストについて読んだし、芸術のためなら苦しみも厭わない。おそらく馬鹿げた考えだが、私は愚かな人間でもない。とにかく私は2枚の素晴らしいヒットアルバムに関わることができ、印税も入って来るはずだったが、実際にお金になるまでには解決すべき多くの法的問題があった。最終的に多くのお金が入ってきたが、それまで私は未払いに対してひとことも文句を言わなかった。正直言って少しばかり恐怖ではあったが、来年は今年よりも稼いでやろうと常に考えていた。たしかにその時は上昇気流に乗っていたと思う。「キング・キリムゾンも良いプレイをするし、観客も多いぞ」という感じで、当時はあまり深く考えていなかったんだ。

ーイエスを離れるにあたって『Close to the Edge』で得る印税の半分を後任のドラマーであるアラン・ホワイトに譲らなければならなかった、というショッキングな話が自叙伝で語られています。

その通り。そうするように言われた。「それで円満に行く」とマネージャーが言ったんだ。だからそれに従った。アランとは良い友だちだし、彼は素晴らしいドラマーだ。約40年後、彼に「アラン、良い取引だったな。私がレコードを作り、君は素晴らしい演奏で世界中にそれを披露してレコードを生かし続けた。その上で私は君に印税の半分を渡した。差し引きゼロということで私が支払った半額の返済を要求したらどうだろう? お互いにとって良い取引だったしね」と言ったんだ。すると彼も本物のジェントルマンで、「そうだね。レコードの半分は君のものさ」と答えたんだ。

ー素晴らしい。

いい話だろ?

ーキング・クリムゾンへ移った時、「なんて事をしてしまったんだ」と思ったか、あるいはすぐに解放された気分だったでしょうか?

それはもちろん、天にも昇る心地で解放的な気分だったよ。ロバート・フリップが「Larks Tongues in Aspic, Part One」や私のお気に入りの「Part Two」を弾き始めると、私は「これこそ自分が求めていたものだ!」と思った。本当に凄かった。ゾクゾク感じた。上手く表現できないが、「なぜあのドラマーはこのバンドを辞めて、あっちのバンドへ移ろうとしているんだ?」というような感じの閉鎖的な環境にいたということだ。移籍しようという考えはあまりなかったが、とにかく自分の目が覚めたことはわかった。気分が一新できたんだ。解毒できたという表現がふさわしいかもしれない。イエスが毒だったという訳ではないが、22歳かそこらで人生の転換期を迎えたということだ。それから『Red』までの約2年間続いた。それからさらに傷つきながら経験を積み、たいていの事は上手くこなせるようになった。特にドラムテクニックは向上したと思う。

ーあなたが変化を望むなら、キング・クリムゾンのパーカッショニストだったジェイミー・ミューアのような人間とステージに立つよりも、午前3時にスタジオでクリス・スクワイアがのんびりとチューニングしているのを眺めていた方がよいということですね。

(笑)そうだな。ジェイミーは完全に……個性的な人だった。残念なことに彼がPAの山に登ろうとしている姿を捉えた映像が残っていないんだ。まず危険な行為だった。口から血を吹き出しながらステージのサンダーシートに向かって鎖を叩きつけ、ロバート・フリップに当たりそうになっていた(編註:ミューアはライブ中に口から血糊を流しながらスピーカーによじ登るパフォーマンスで有名だった)。それはサーカスであり、シュールなパフォーマンスアートでもあった。ある意味で奥の深い演劇であり、奥の深い音楽とも言える。彼のパフォーマンスは素晴らしかった。まるで自然児のようだと思ったよ。

彼は元々ドラマーではなく、割と遅くからドラムを始めた。たしか最初はトロンボーンだったと思う。肺活量が少なく吹く力が弱かったから、ドラムに転向したんだ。同時に彼は悟りを開き、たしか僧侶になるために辞めてからしばらくの間スコットランドにいたと思う。とても変わった人間だが彼の周りには何らかの力が働いていて、エネルギーに満ちた人だった。彼の磁場に近づくと髪の毛が逆立ち、何かが変わるんだ。私はその感覚が好きだった。ただ、彼は私のドラムに対してかなり無礼だった。

ーどのようにでしょうか?

ああ、彼は私がドラムで目立とうとしている奴だと考えていたようだ(笑)。その通り、彼は正しかった。ジェイミーと出会うまで私は、バンドというものはただ私を楽しませるための存在だと思っていた。私が皆で音楽を作りあげるための一員だとは考えもしなかった。典型的な自惚れ屋だった。たぶん目立つことを最優先し、テクニックに頼りすぎるドラマーだったろう。私も若かった! 若すぎた。反省している。

ーそれまでスタジオで『Close to the Edge』のレコーディングを続けていた状態から、クリムゾンのステージでの30分間のインプロビゼーションへの移行には、かなりの順応力が必要だったと思います。

そうそう、その通り。まず私はインプロビゼーションの新人研修のようなものを受けたんだ。ジェイミーの家へ行ってみると、小太鼓、小さなパーカッション、ラトル、シェイカーなどあらゆる打楽器が床中にばら撒かれていた。そして彼と私は床に置いてある楽器を手当たり次第に取って、ひたすら鳴らし続けたんだ。そしてすべてをテープレコーダーで録音した。そうやってインプロビゼーションへの恐怖心を解消できた。今ではどのようなインプロビゼーションも得意さ。例えばこの電話インタビューもね。私は常に臨機応変に対応している。次に何が起こるかわからない状況を楽しんでいるのさ。

ー自叙伝に印象深い一節がありました。「ジェネシスとイエス、キング・クリムゾンを十把一絡げに語るのは、平凡で浅はかなマスコミ連中だ。私が自信を持って言えるのは、この3バンドほどそれぞれに特徴のある組織はない、ということ。私はこれらすべてのバンドを直接知っている……」と述べています。『Close to the Edge』のイエスから『Larks Tongues in Aspic』のキング・クリムゾンへあなたが移行したことで、たとえそれが誤っていようが、これらバンドを「プログレ」としてひとつに分類させるきっかけになったと思います。

そうかな、興味深い解釈だね。この2つのイギリスのバンドは、今ではプログレッシブ・ロックというひとつのジャンルにまとめられている。音楽全体を語る上では問題ないと思う。しかし個々を見ていくと、例えばジョン・アンダーソンとロバート・フリップ、それからジェイミー・ミューアとクリス・スクワイアとの間にはほとんど類似点が見つからない。彼らはそれぞれが個性を持つ人間だ! 彼らの目指すものも違うし、耳から入って来るものも違う。音楽に対する考え方もそれぞれだ。音楽をどう扱わなければならないという決まり事があるだろうか? ただの3分間のポピュラー音楽と思うのか、それともさらに何かを感じるのか? そしてそれをどう扱うのか?

その意味でキング・クリムゾンは、どちらかというと実験室のようなものだと思う。ロックの中でできる可能性や未来のサウンドを追求する実験室だ。そしてジャンルの境界線が曖昧になり、どこからロックがロックでなくなるかを探求するなど、実にさまざまな実験を行った。だからキング・クリムゾンは、私の概念的な側面に訴えかけるものがあった。ドラムの概念的な面や、ミュージシャンとしての概念や目的を大切にしてきた。ドラミングの基本などよりずっと重要なことだ。バスドラムのペダルに何を使っているかと尋ねられても、ちっともわからない(笑)。むしろドン引きするだろう。私はものの外観にそう興味はない。それよりも、ドラマーの目指すものやドラミングに関するマクロ的な見方に興味がある。だから私が自分の思い通りにプレイできるドラマーだったとしても、ロバートが耳にすることがなければ私がキング・クリムゾンの一員になることはなかっただろう。彼らもそう言っている。

ー自叙伝であなたは、キング・クリムゾンの1974年のアルバム『Red』制作中の奇妙な時期について書いています。その時ロバートは黙り込み、何事にも意見を述べなくなったといいます。どのような状況だったのでしょうか? 『Red』は傑作だとされていますが、作るのに相当苦労したと思います。

たしかにとても悪い雰囲気だったし、とても困難を極めた。私は神経が図太いし、人の力でどうにかなるものなら、どうあっても事が上手く回るように立ち回るだろう。でも当時のロバートは明らかにそうではなかった……彼はレコーディングに参加していたが、普通の人が理解できるようなやり方ではなかった。彼は一応参加していたが、ほとんど何も喋らず、気乗りしない感じだった。そこでジョン・ウェットン(Ba,Vo)が仕切って、エンジニアのジョージ・チキアンツと私とが協力して仕上げた。奇妙なプロセスだった。ロバートも近くにいたが、おそらく何らかの精神障害を患っていたのだと思う。私は一緒に取り組んでいる人があまり嬉しそうでないと、いつも相手の心を思いやるようにしている。とにかくとても難しいアルバムで、最後はドラムスティックを放り投げて、ああやっと終わったとホッとした。

ー自叙伝には、後にジョン・ウェットンと組んだバンド「U.K.」について、とても面白い記述があります。芸術的なあなたとギタリストのアラン・ホールズワースがひとつの派閥で、後にエイジアを結成するジョンと、キーボード&ヴァイオリンのエディ・ジョブソンがもう一方の商業的な派閥だということでした。それぞれの感性の違いはそれほど明確なものだったのでしょうか?

(笑)私はそんなシンプルに表現していたかな? おそらくその通りだろうが、もっと深い意味がある。繰り返しになるが、プログレッシブ・ロック・グループの人たちはそれぞれ個性があり、定義の考え方にも幅がある。上手く行けばヒットアルバムが生まれるはずだ。しかしヒットすることと、音楽的な価値の高さとは関係がないと思う。関係性がまったく見つからない。例えば、「Kathy」というのが北米で最もポピュラーな女性のクリスチャンネームだから曲のタイトルは「I Love You, Kathy」にすべきだと主張する商業的な意見もあれば、「I Love You, Debbie」の方がいいという人もいる。ジェイミー・ミューアは、今私が話した内容をまったく理解しないだろう。また素晴らしいテクニックを持つ気難しいアラン・ホールズワースは私と同様、全力を尽くして自分の思い通りにプレイできる。オーディエンスが気に入ればそれは素晴らしいし、気に入られなくとも素晴らしいことに変わりない。良いことだ。自叙伝の中ではその両極端に言及した、というのが正しい表現だろう。

私はそのどちらを支持するつもりもない。誰でも音楽に何かしらの意味を持たせるため、自由に足したり引いたりできる。その意味というのがヒット曲を出すことであれば、それはそれで素晴らしい。ただし、私がそのバンドのドラマーでない場合に限るが。U.K.の1stアルバムはとても素晴らしい作品だった。しかし我々全員は、エイジアが出来上がるのを何とか止めねばならないという思いから、バラバラになってしまった。その時エイジアが結成されていた訳ではないが、言いたいことはわかるだろう。ジョンとエディらはバンドを続け、もっとポップな音楽を作りたいと考えた。彼らにとってはそれが最高の選択だったんだ。

ーもっとポップな音楽といえば、自叙伝の中で友人のフィル・コリンズがポップへ向かった点に言及している部分は、興味深いエピソードです。あなたは、彼の初期のソロ作品がオープンでソウルフルだと称賛しているように感じます。

パフォーマーとオーディエンスがあんな風に直接的に結びつく様子には、感心するしかない。パフォーマーが何かすると多くの人々が反応し、歓喜の声を上げる。素敵な風景だと思う。ポピュラー音楽は好きだが、私自身は広く受けの良い音楽を作るのが苦手だ。「Owner of a Lonely Heart」のように(編註:1983年のイエスによるこのヒット曲は、ブルーフォードがバンドを離れた後のもの)、3分か5分の楽曲にやりたいことを凝縮できたら良いと思う。当時のフィルは、いわゆる「離婚アルバム」が得意で、見事に当たった。私もジェネシスの「Suppers Ready」などはお気に入りだ。

私が関わる音楽は、精神的な繋がりのある場合が多い。それが心地良い。共同制作したり、またその楽曲や仲間の作品の演奏を頼まれたりしたら、喜んで引き受ける。自分はセッションミュージシャンとしては大したことがない。1976年にジェネシスに参加した時もそうだった。スティーヴ・ガッドのような本物のドラマーであれば、どんなシチュエーションにも適切に対応できるのだろう。私の場合はどうもしっくり来ない。9カ月が精一杯だと思う。

ーでは、周囲とのクリエイティブな関わりがなかったからこそ、淡々と仕事をこなせたのでしょうか?

たしかに、クリエイティブな関わりのほとんどない時期もあった。特にキング・クリムゾンとのツアーの終盤や、1991年か92年に参加したイエスのツアーでは、共同で何かを作ることが求められなかったから、バンドとしてかろうじて機能した。新しい音楽や楽曲を作ったり、今までとは違う作業を求められたりしたら、大混乱が起きて皆バラバラになってしまう。ステージで『Fragile』や『Close to the Edge』などの慣れた音楽を延々とやっている間はもちろん、バンドとして機能できる。ところが例えばアースワークスのように、より難易度の高いクリエイティブなものは周囲からの受けはいいが、一気に実現が難しくなる。

ーロック・ドラマーの間では、本当はジャズをプレイしたいというのが決まり文句のようになっています。ところが実際は、あなたのように本格的かつ長期的に転向できるドラマーは稀です。アースワークスを結成した当初の、腰掛けやリップサービスなどでないという確固とした決意表明はあなたにとって重要だったでしょうか?

ある意味重要だった。単なる道楽半分のパフォーマンスなど誰も見たくない。仲間たちや広くジャズミュージシャンに対する侮辱だし、失礼だ。古いことわざにあるように、湖の対岸へ行きたければ、こちらの岸を離れて向こう岸へ渡らねばならない。両岸に脚をかけておくことはできないのだ。

しかし、アンダーソン・ブルーフォード・ウェイクマン・ハウというイエスのスピンオフバンドによる本格的なロックのツアーを終えた後、アースワークスを立ち上げ、さらにパトリック・モラーツ(Piano)、ミケル・ボルストラップ(Piano)、デヴィッド・トーン(Gt)、トニー・レヴィン(Ba)などお気に入りのアーティストたちと共演した時期もある。つまりロックとジャズとを行き来していたんだ。二足のわらじを上手く表現した俳優のショーン・コネリーの話がある。彼はハリウッドへ進出しジェームズ・ボンドを演じて大金を稼いだが、その後もしイギリスへ帰国してロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに出演したとしても、その給料は犬の餌代の足しにもならないだろうという。これこそ正に、二足のわらじを3週間以上続けようと目論むミュージシャンが知っておくべき収支勘定だ。つまり片方でもう一方を補うということだ。

ーアースワークスに関して興味深いのは、バンドに参加した初期のメンバーのほとんどがビル・ブルーフォードについて知らないか、あるいはイエスやキング・クリムゾンの作品を聴いたことのなかった状況を、あなた自身が楽しんでいるようだったことです。

(笑)本当に愉快だった。そんな状況を驚く人もいるだろう。だが私自身にとっては特に驚きでも何でもなかった。普通ジャズ畑の人たちは、大きなスタジアムでのロックなど研究したりしないからね。ロックについての知識もほとんどない。他のことで手一杯なんだ。クラシックの音楽家についても同様で、彼らはジャズについてほとんど知らない。依然としてはっきりとセグメント化された世界だ。

ーアースワークス初期の活動で注目すべきだと思ったのは、『Red』時代のキング・クリムゾンとは対照的に、陽気さや喜びが感じられたことです。あのように明るくしたのは意図的だったのでしょうか?

いや、自分から要求したことはない。メンバーを集め、ただこう言うだけだ。「よし、バンドを組んでみよう。曲はこんな感じだ。私がエレクトリックドラムでリードするよ。エレクトリックパッドでコードやハーモニーを表現してみたいんだ。君たちがそこに単音を乗せてくれると、少なくとも今までにないユニークなサウンドになるだろう。打楽器に対する感覚は皆それぞれだし、バックグラウンドもさまざまだからね」という感じさ。そうして皆が同じ目的へ向かってスタートした。

「明るく楽しくやった方がいいだろ?」などと言った覚えはない。でもメンバーは陽気に楽しんでいた。彼らは悲哀や憂鬱をさまざまな方法で表現した。例えばイアン・バラミー(Sax)は、アースワークスの1stアルバムに収録された「It Neednt End in Tears」で美しいバラードを聴かせた。正に叙情詩的な叫びだった。またアルバム『All Heaven Broke Loose』の「Candles Still Flicker in Romanias Dark」はジャンゴ・ベイツ(マルチプレイヤー)による作品で、(ニコラエ・)チャウシェスク政権下で増加した両親も何もない孤児院の子供たちをテーマにしている。とても酷い状況で、当時は毎晩テレビのニュースで流れていた。これはジョン・ウェットンが「One More Red Nightmare」(キング・クリムゾン『Red』収録曲)で聴かせた表現方法とも異なる。ジャンゴはまた違った感性を持ち、とても繊細で美しい曲に仕上げた。つまり、私から彼らにこうしてくれと要求した訳ではないのだ。メンバーそれぞれが自分なりのやり方を見出してくれればバランスが取れる。U.K.のように、常にメンバー間に緊張感が漂って長続きしないバンドにはならない。

ー自叙伝では、アースワークス結成時の状況についても語っています。あなた自身はジャズのギグを続けたいと思う一方で、イエスのアルバムへの参加依頼もありました。どうにかして周囲の圧力から脱し、自分の意志でアースワークスを結成するに至ったターニングポイントはありましたか。また、それにはどれ位の時間がかかったでしょう?

はっきり言ってよくわからない。何事にも時間がかかるのは間違いない。アメリカの素晴らしき友人たちのキャラクターによる、と言った方がいいだろう。一般にアメリカでは、自分は上手な野球選手だというレッテルを一度貼られると、「野球は大好きだが、私はテニス選手なんだ。テニス選手としての私を好きになって欲しい」と突然宣言しても通じない。アメリカでは一度受け入れられると、それも大いに気に入られると、自分が変わりたいと思ってもまったく受け入れられない。その点ヨーロッパでは少し状況が違うと思う。こちらでは、相手に対してまるで今晩初めて出会ったかのように扱う。

とても大雑把な一般論になるが、アメリカでは一度自分の地位を確立すると、大金持ちや美しく若い女性たちにちやほやされて持ち上げられる。いい気分だが、同時に束縛も受ける。ミュージシャンも同じだと思うが、私は気にしなかった。私は喜んで『Close to the Edge』のアルバム制作に参加したし、周りがそう呼びたいのであれば、イエスの元ドラマーと言われることに違和感もない。私としてはどうでもいい。自分がやっていることに自信を持っているし、何と呼ばれようが自分のやり方を大きく変える気もない。

ーアースワークスの全作品の中でも、後期のアコースティックバンドが気に入っています。無駄なものが削ぎ落とされて生き生きしているように感じます。バンドリーダーとして中心的立場に近づいていく中で、そのように感じていましたか?

そうだね。中心というのは動き続けるから、常に近づく努力をしなければならないのだと思う。個人としては常に学び続け、目標へ向かって変化を続ける必要がある。大きく行ったり来たりするものだろう。力強いアコースティック音楽をやっている時は、デイヴ・ホランドの『The Razors Edge』みたいな演奏に魅了されていた。それに、アコースティック音楽にヘヴィなドラムセットを入れることができるとは思わなかったんだ。そうなると強力なベースプレイヤーが必要になる。(アースワークスの)マーク・ホジソンのようなアップライトベース・プレイヤーが、厳しい状況の中でもがんばる姿は、素晴らしい。だからこそ私もその時期のアルバムは気に入っている。『The Sound of Surprise』はお気に入りのひとつだ。このアルバムは聴いたかい?

ーもちろん。素晴らしい作品です。

私もとても気に入っている。セールス的には振るわなかったし、あまり注目されなかった作品だ。同時期に別のビッグヒットがリリースされたんだろうと思っている。それでも自分のお気に入りの一枚であることに変わりはない。その時期のバンドも好きだった。素晴らしかった。また当時のアメリカのエージェントだったテッド・カーランドも良かった。

ーアースワークスのアルバム『A Part and Yet Apart』のタイトルは、ジャズとロックの狭間にあったあなたの感情を表しているようです。広くジャズ・コミュニティから最も確信を得たものは何だったでしょうか。また逆に最も遠ざけたものはありますか?

うーん、難しい質問だ。ジャズ・コミュニティから最も確信を得たもの? わからないな。アースワークスの1stアルバムがUSAトゥデイ紙に取り上げられたのをきっかけに、特にアメリカでの評価は好意的なものだった。それが確信だというのなら、素晴らしいことだった。逆に確信を持てなかったものは、本当にわからない。悪いけど意識したことがない。

ーロック畑のファンがあなたに付いてきて、彼らにもジャズの世界を広めたという意識はありましたか?

もちろん。アースワークスのライブでもそのような話はよく耳にした。私を目当てにライブに来てくれたのだろうが、帰る時にはジャズが好きになっている。「まさか自分がジャズを気にいるとは思っていなかった。でも今聴いたのがジャズだっていうのなら、結構いいね」という感じだった。そういう意味で私は、関わっていながら離れてもいた(a part and yet apart)といえる。我々が多くの人々をジャズへ引き込んだという確信は持っている。我々がいなければ、彼らがインストゥルメンタルのライブに足を運ぶようなこともなかっただろう。つまりボーカルのいないライブだ。そもそも彼らは、そのような音楽からは縁遠い存在だっただろう。

ーそれは間違いなく喜ばしいことです。ジャズ畑の人々にとっては、あなたが人々の心をジャズへ向けてくれたと思っているでしょう。

とても嬉しいね。そのように捉えてくれるなら、素晴らしいことだ。私にはそのような役割があると感じている。またそうなれると思っている。とても幸せなことだし、望むところだ。

プログレ史上最高のドラマー、ビル・ブルーフォードが語るイエス、クリムゾンと音楽家人生

© Copyright Bill Bruford and Bill Bruford Productions Ltd.

ー自叙伝では、あなたのヒーローだったマックス・ローチがキング・クリムゾンを観に訪れたエピソードも紹介されています。彼とは長い間、有意義な関係を築けたのでしょうか?

自分では有意義かどうかはわからない。彼は自分のことを大いに褒めてくれた。何度か直接会い、彼の音楽を何曲かカバーする機会もあった。彼のドラミングからは多く学んだ。彼の作品は大好きだし、彼にもそう伝えた。彼はとても礼儀正しい人間だった。

マックスと私を引き合わせてくれたのは、映像監督のスティーヴ・アピセラという人だった。彼がキング・クリムゾンのライブに何度かマックスを連れてきて、アースワークスのライブにも一度来てくれた。それはモントリオール・ジャズ・フェスティバルだった。アースワークスで私がプレイしていたいわゆるエレクトリックドラムを聴いてみようと、前から2、3列目には多くのドラマーが陣取っていた。ライブの後、マックスは我々のステージを絶賛してくれた。マックスとは、プロフェッショナル同士の関係以上のものはなかったが、素敵な人だった。

ーそれでも、自分がインスパイアされた人の前で初めて演奏するのは、最高の気分だったのではないでしょうか。

最高だった。それが君の言う確信というものだったのかもしれない。

ー影響やインスピレーションといえば、若いメタルドラマーの多くがあなたから大きな影響を受けたと言っています。どのように思いますか?

素晴らしいことだ。本当に。カート・コバーンが『Red』を褒めるような発言をしてくれた時、大きな確信が動き出した。多くの若者たちが「キング・クリムゾンって何だ? Redとはどういう意味だ?」と突然関心を示すようになったのだ。例えばマイク・ポートノイ(元ドリーム・シアターのドラマー)は、私の大したことない実績をいつも絶賛してくれるが、それはさておき、とても喜ばしいことだ。

ーイエスでロックの殿堂入りしたことは、あなたにとって大きな出来事でしたか?

いい質問だ。常に世界で最も素晴らしいショーを見せ続けなければならないロックの殿堂を運営する人々に、我々が受賞の待ち行列にいることをアピールした訳ではないけれどね(笑)。受賞メンバーに入れて嬉しいし、感謝もしている。実感が湧くまでに一晩かかった。もらったトロフィーはたぶんバスルームかどこかに飾ってあると思う。部屋中にトロフィーや何やらを飾ったりするのは好きではない。だから本当は受賞されることなど苦手なんだろう。マックス・ローチなどから賞賛された方が自分にとっては、おそらくもらったトロフィーよりもずっと価値を感じるのかもしれない。でも受賞できて嬉しい。私は招待されることに反発するような偏屈な人間でもないし、招待されないことにずっと不満を言い続けているような人間でもない。私は呼ばれたら喜んで行く人間だ。

ーリック・ウェイクマンのスピーチを聞いてどう思いましたか?

おいおい長いよ、と思った。でも残念ながら腹を抱えて笑ったけれど(笑)。(怒ったように)「リック!」という感じだった。我々はステージの上で気まずかったよ。あれがリックだとしか言いようがない。彼に任せるとああなるんだ。

ーキング・クリムゾンが殿堂入りするとしたら、何か感じるものはあるでしょうか?

あるね。でもロバートが賛同するとは思えないから、殿堂入りは実現しないだろう。私がすごく乗り気だという訳ではないが、彼の方はもっと冷めていると思う。彼の気持ちを代弁する気はないが、心の底では彼も殿堂入りしたいだろう。でも彼はどうしても受け入れないと思う。本当の気持ちは知りようもない。長い年月が経って、彼も私もだいぶ変わったからね。

ー最近もロバート・フリップとはなんらかの形で連絡を取っているのでしょうか?

ほとんど取っていない。彼のバンドはとても感じが良いし、メンバーのほとんどは知り合いだ。キング・クリムゾンが最近ロンドンへ来た時には、バックステージでジャッコ・ジャクジク、トニー・レヴィン、パット・マステロットといった懐かしい面々と会った。ロバートも顔を見せて、少し挨拶した。そんな程度だ。皆は「一緒に『Schizoid Man』か何かをやろう」と言ってくれるが、私は「冗談言わないでくれ。もう10年もドラムに触っていないよ」と断った。今はそんな感じで、彼らが演奏するのを観ているのが楽しい。

この手のことはさらっと済ませるのが好きだ。イエスが、パラディアムのステージ上で彼らを紹介してくれないかと頼んできた。パラディアムはアメリカで言うところのラジオシティ・ミュージックホールのような大きな劇場で、イギリスでは大きな人気がある。ステージに立ってイエスのメンバーを紹介するのは、何だか奇妙な感じがした。イエスの熱狂的なファンは私に何か演奏して欲しいと思っているだろうからね。でも実際にはただ挨拶して、バンドをステージへ招き入れただけだった。

ー「プログレ(prog)」という言葉に対するあなたの考えを、ぜひ伺いたいと思います。ロバート・フリップなら、嫌悪感を示すでしょうね。

そうそう、そう思う。とても不愉快な言葉だよね。

ー(笑)あなたの見解はどうでしょう?

とても不快だ。進歩という発想は好きだ。あらゆるミュージシャンは進歩していくと私は信じているから。かつて私はカントリーミュージックを聴いたことがなかったし、君もそうだとは知らなかった(笑)。それでもカントリーミュージックが進歩してきたことは理解している。進歩という言葉の持つイメージは好きだ。しかし「プログレ」はとても酷く不快だ。私はこれ以上の説明はできないと思う。

ー70年代後半頃のムーヴメントに逆光し、押された烙印について多くの議論がありました。その時代に関わっていた人間として、意識はしていましたか?

そうだね、知ってはいた。もちろん私は長いこと関わってきて、時代遅れになったりまたブームが来たりという状況を見てきた。そして80年代にはグランジやパンクやいろいろな盛り上がりがあり、プログレッシブなどと言えばただ笑い飛ばされるだけだった。しかし私は構わなかったし、そのうち逆行することがわかっていたので、全く気にすることもなかった。40代や50代以上の人なら、ブームが何らかの形で繰り返し、新たな世代に再び評価されるのを見てきただろう。今は若いミュージシャンも多い。ディストリクト97というシカゴ出身の素晴らしいバンドがある。彼らはここイギリスでも活躍している。いわゆる次世代のプログレッシブ・バンドが出てきて、かつての我々よりも素晴らしい演奏を聴かせている。

ただし難しいだろうが、彼らも独自の道を見出さねばならない。なぜなら我々が既に多くのスペースを取ってしまったからだ。我々古い世代が、進歩の余地を奪ってしまった。しかし今や、おびただしいポピュラー音楽の50年かそれ以上の歴史が積み重ねられている。100年分の素晴らしいポピュラー音楽が今なお記録され保持されているから、今のミュージシャンはそれよりも良いものを作り出さねばならない。そうやって進んでいくのだ。難しい課題だし容易いことではない。