音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送されてきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。


2023年4月後半2週は、昨年12月に発売になった『浅川マキの世界2 ―ライヴ・セレクションBOX』をクローズアップ。浅川マキを世に送り出したプロデューサーで本6枚組ボックスセットの監修者・寺本幸司をゲストに彼女の音楽世界を掘り下げる。その後編を掲載する。

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田家:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター田家秀樹です。今流れてるのは浅川マキさんの「MC」です。
ラジオで彼女のライブのMCが流れることがあったかなと思いながらお聴きいただいてるのは、年末に発売になった『浅川マキの世界2 ―ライヴ・セレクションBOX』の中の『1993年6月30日「浅川マキ・北海道ツアー最終日」@釧路・生涯学習センター・大ホール』の中のものです。「浅川マキ Live伝説」。彼女を世に送り出したプロデューサー、この6枚組ボックスセットの監修者・寺本幸司さんをゲストにお送りしてます。

寺本さんは1938年生まれ。浅川マキさん、りりィ、イルカ、下田逸郎さん、桑名正博さん、南正人さん。数々のアーティストを手がけて今なお新しいアーティストに関わっている現役のプロデューサーです。
浅川マキさんは寺本さんがお作りになった日本で最初のインディーズレーベルの第1号アーティストとしてデビューしたんですね。浅川マキさんは2010年1月17日、名古屋公演の当日、ホテルの部屋で亡くなりました。没後13周忌を記念して発売されたのが、このボックスです。先週と今週は寺本さんに話をお聞きしながら、その中の曲をお送りしようと思います。こんばんは。

寺本:こんばんは。


田家:今、8分30秒のMCを流してるわけですが、これだけまとまったMCが入ってるライブアルバムっていうのは。

寺本:もちろんありませんよ(笑)。

田家:アルバムの中にインタビューみたいな会話が入ってるのもはあったと思いますけど、これはもうそのまま入れようと?

寺本:北海道ツアー、いちばん最後の釧路・生涯学習センター・大ホールでやったんですけど、この現場に、ぼくは行ってないんですよね。行ってないけど旭川でライヴをやっていた南正人から「この日、釧路に行くよ」みたいな話は聞いていたんで、マキは南をゲストで出すのかな、とか思ってたんだけど、それを南にはいわないで、いきなりサプライズで客席の南を呼ぶって場面なんですね。その前にこの長い長いMCが入っている。

田家:先週、寺本さんが原田芳雄さんが好きだった言葉、「時代に合わせて呼吸するつもりはない」という話を紹介されて、それについてマキさんが「私は時代に合わせて呼吸することがもうできない」ってお話されてるのもこのMC中に入ってます。
先週もこの話になったんですが、そもそも『1978年7月7日「浅川マキ・真夜中の池袋・始発まで」@池袋東映』の隠し録りした音がこのボックスセットに繋がってる。そのカセットを最初お聞きになったときには、ちょっと時期を待とうということだった。

寺本:もちろんこの音は、世に出すべきだと思いましたよ。けど、この前もしつこくいってますけど、「人は死ぬけど歌は死なない」っていうぼくの考え方がまだはっきりしてない時期でもあったし、ロンドンのレコード会社「オネストジョン」のHoward Williamsがプロデュースしたイギリス盤レコードとCD「Maki Asakawa」が出たばかりだったしね。話は逸れますが、このマキのイギリス盤が一番売れたのはベルリンなんですよ。それをHowardに「なぜ?」って訊いたら、「自分もよくわからないけど、まず日本語の響きっていうものを彼らが掴まえて、ほとんど翻訳を見ないでもマキの歌ってる内容がわかるっていうんですよ。
もちろんレコードから先にベルリンで売れて日本でも京都なんかでもすごく売れたんですけど、ベルリンから始まったっていうのがすごく面白くてね。その辺りからブームなっていうコトバ好きじゃないんだけど、浅川マキのブームみたいなもんが密かにジワーッと広がって来て、「今だ!」と池袋東映の音を持ってユニバーサルに行ったんですよ。

田家:隠し録りの音を(笑)。

寺本:そしたらユニバーサルのディレクターの浦田さんとかが、柴田さんから預かってるライヴ音源がいっぱいあるし、「この際、そういうものを組みあわせて、セレクションライヴBOXみたいなものを作りませんか?」って言われたわけ。

田家:なるほど。今週は『1991年3月30日「浅川マキを聴く会」@新宿PIT INN 』、『1993年6月30日「浅川マキ・北海道ツアー最終日」@釧路・生涯学習センター・大ホール』からお聴きいただこうと思うんですが、まずは新宿PIT INNのこの曲です。


こころ隠して / 浅川マキ

田家:『1991年3月30日「浅川マキを聴く会」@新宿PIT INN』の中「こころ隠して」。作詞が浅川マキさんで、作曲が近藤等則さん。オリジナルが先週も話に出た1982年の『CAT NAP』の中の曲で、近藤さんが全曲を書いたアルバムでした。

寺本:文芸坐ル・ピリエが93年に閉館になったりして、浅川マキはPIT INNに戻ったっていったらおかしいけど、PIT INNをライヴ活動の表舞台にするようになったんです。そのときから、ピアノが渋谷毅で、ベースが川端民生、ドラムがセシル・モンローで、サックスが植松孝夫のセッション・バンドが決まりになった。そこへトロンボーンの向井滋春が加わったり、この夜は、ルースターズのギター下山淳。下山はこのライヴだけ出てるんですが、このメンバーでこの曲をやるっていうのが面白い。これで近藤が入ったらまた別にものになっちゃうので、なかなかいいなと思って選ばせてもらいました。

マイ・マン / 浅川マキ

田家:『1991年3月30日「浅川マキを聴く会」@新宿PIT INN』の中の「マイ・マン」をお聴きいただいてます。ビリー・ホリデーの代表曲ですね。82年にシングルカットもされております。このPIT INNってのは、やっぱりマキさんの中でもある種の特別な場所だった。

寺本:特別な場所ですね。マキはジャズの聖地だっていってましたから。PIT INNには、それだけ思い入れがあるんです。

田家:特にマキさんは新宿蝎座出身ですからね。

寺本:元新宿のアングラの女王でしたからね(笑)。PIT INNには、自分が出る出ない関係なしによく聴きにいって、そこで川端民生の音を聴いて、惚れ込み、「ぜひ、あたしとやってよ!」って口説いた感じがあるんですよ。

田家:なるほど。先週は京大西部講堂に最初は出してもらえなかったという話がありましたけども、PIT INNではそういう反応があったんですか。

寺本:いや出してもらえないなんてことはなかった。山下洋輔と一緒に組んだあたりから、浅川マキはスイングジャーナルで名前が出てくるようになったし、ある意味、ジャズ界に認知された流れがありましたから。

田家:マキさんのライブテイクがいくつもあって、蝎座とか西荻窪「アケタの店」とか、明大前キッド・アイラック・ホールとか吉祥寺曼荼羅とか、いわゆるコンサートホールでもないし、有名な人がやるっていう会場じゃないところのテイクが割と多いのかなとか。

寺本:スタジオ録音が多チャンネル化して、ピアノはフロアーにあるけれど、ドラムもベースも管楽器まで仕切りのある部屋に入れられて、マキもテレビモニターを見ながら歌うなんてレコーデイングが、ぼくも含めてイヤになった時期なんですよ。「昼間、ちょっと使わせてくれない?」 とかいったら、「アケタの店」の明田川荘之さんが乗ってくれて、「貸切りでレコーディングするのもOKだが、ひと月うちでやらない?」とかって、ひと月公演をやったりする。キッド・アイラック・ホールもそういう感じで借り切ってレコーディングしたりしました。

田家:いわゆるレコーディング。

寺本:「音が回ったっていいじゃないの」って、いつも浅川マキは言ってて。吉野金次っていう天才ミキサーとやっていた頃で、キッド・アイラック・ホールに16チャン持ち込んで坂本龍一がオルガンで入って同時録音するわけです。ヴォーカルは後からもう一回やることもあるんだけど、ライヴ感覚っていうよりも、「あたしは蠍座でデビューしたんだから」って、マキはそこにすごくこだわりましたね。

田家:そういう浅川マキさんらしさが詰め込まれた6枚ではないかと思うんですが、寺本さんがPIT INNで選ばれた、「ガソリン・アレイ」。

ガソリン・アレイ / 浅川マキ

田家:『1991年3月30日「浅川マキを聴く会」@新宿PIT INN』中の「ガソリン・アレイ」。ロッド・スチュワートの1970年のヒット曲、代表曲でもあります。

寺本:マキはロッド・スチュワートが大のお気に入りで、フェイセズをやめて帰ってきた山内テツと組む、みたいなとこがあったりして、そういうとこはすごくこだわりいっぱいの女なんです。マキの「ガソリン・アレイ」の日本語詞、すごくいいと思ったし、ジャズミュージシャンと組む以前は結構やったんですよ。下山淳がPIT INNに出たとき、ぼくは行ってないんですけど、これを聴いて、下山が「ガソリン・アレイ」やってるなんてめちゃくちゃ凄いとことだと選曲しました。このBOXを出すと決まったあと下山と話したんですが、「ルースターズ時代からマキさんは、よく聴きに来てくれていて、このPIT INNだけちょっと来てくれないかな、といわれて出たんです」と。下山とはマキは他でもやってるけど、音として残ってるのはこれだけなんですよ。

田家:すごいな。そういうレアテイクが入ってる。カバーもそうなんでしょうし、ミュージシャンの選択もマキさんが自分で聞いていいと思った人のところに、一緒にやりたいって言いに行ったりする。

寺本:マキはギャラに関しても、アタマからこれしか払えないけど、ってきちんとするから、「いつもちゃんと払ってくれましたよ」って、つのだひろもいうぐらいミュージシャンとの付きあい、きちんとしてましたね。

田家:そういうところは自分のプロデューサーだったっていう面もあるんですね。

寺本:マキは、ぼくと知りあうまえから、譜面を持ってキャバレーとかクラブとか回って歌って、お客さんにウケるウケないみたいな仕事をずっとしてきてるから、いわゆるミュージックビジネスっていうのをちゃんと知っている。

田家:そういう裏側っていうか一番つらいところも経験してる。今日の後半はDisc6、6枚目ですね。『1993年6月30日「浅川マキ・北海道ツアー最終日」@釧路・生涯学習センター・大ホール』からお聞きいただきます。これもカバーです。「センチメンタル・ジャーニー」。

センチメンタル・ジャーニー / 浅川マキ

田家:「センチメンタル・ジャーニー」。ドリス・デイでヒットしたスタンダードですね。

寺本:「センチメンタル・ジャーニー」は、寺山修司が銀巴里に来たときにも歌ったのよ。だから浅川マキにとって、ゴスペルとかブルースを歌っている中で「センチメンタル・ジャーニー」っていう曲はあったわけ。だから今回、寺山との出会いの曲でもあるし、これを聴いてもらいたかったったんです。

田家:これは訳詞が浅川マキさん。改めて思ったんですけど、カバーのマキさんの訳詞は独特ですね。日本語でちゃんと自分の歌に、もちろんご自分で訳されてるわけですから。でもいわゆる訳詞って感じがないですね。

寺本:マキは、「この歌を日本語で歌うなら、あたしはこう歌うわよ」って決めてる。だから「朝日のあたる家」は「朝日楼」というタイトルにして日本語詞をつけてます。そういう感じなんで、「赤い橋」を加藤登紀子が歌いたといって来たとき、マキは「ダメ、あたしが歌うためにコトバ(歌詞)をつけているんだから、誰かが歌うと、それはあたしの歌じゃなくなっちゃうの」って断った。そんな風に、みんな断ってたんですよ。ところが1980年くらいに、ぼくが「ちあきなおみ」をちょっとやってる時期があって、草月ホールのちあきのコンサートを構成演出したとき、ちあきが、どうしても「朝日楼」を歌いたいっていうんで、マキに電話して、「ちあきが朝日楼を歌いたいっていってるけど、いいかな?」といったら、そく「いいわよ、ちあきなら」って。それでちあきは歌って。ちあきが歌ったいろんなカバー曲あるけど、いまでもYouTubeでいちばんアクセスあるのは「朝日楼」だったりしてね。

田家:すごいな。浅川マキとちあきなおみか。ここで出会いました。

あのひとは行った / 浅川マキ

田家:作詩作曲は浅川マキさんで、77年のアルバム『流れを渡る』に入ってました。このアルバムのメンバーすごいですね。ベース吉田建、ギター内田勘太郎、ドラムつのだひろ、ギター萩原信義、ピアノ白井幹夫、そして坂本龍一がオルガン。

寺本:これは、明大キッド・アイラック・ホールで録音したものの1曲なんですけどね。そのためにマキは作ってきたっていうかな。結局いま思うと、ぼくはお産婆さんみたいなもんで、マキがこの曲ができて、この曲を録音したいって、いちばん初めに聴くのはぼくなんです。

田家:取り上げてあげる。

寺本:そうそう、でも「最後のこのフレーズどうなの?」とかいう場面があったりしたとき、ぼくが何かヒントのようなコトバをいって、マキが手直しをしたりする。これだったらおぎゃあと生まれて来ていいよな、という場面がある。この曲もそんな中の1曲なんですよ。これから先、あたしはジャズミュージシャンたちと違う音楽世界に行く。1番があって2番があってサビがあって、みたいな歌はうたわなくなるかもしれない。このメンバーでやりたいって彼女がこの歌を持ってきたんですよね。時が流れて、北海道ツアーの最終日の釧路で、このメンバーで、この歌を聴いたとき、「歌ってやっぱり死なないんだな」ってつくづく思った楽曲なんで、選ばせてもらいました。

田家:なるほど。北海道ツアーっていうのは、第2回北海道ツアーだったっていうふうにライナーノーツでお書きになっていましたよね。あまり北海道っていうのはツアーで回ったりはしてなかった?

寺本:デビューしたてのころは、萩原と2人で方々へツアーっぽく回りましたけど、バンドを組んでからは、九州なんかも行ったりするんですけど大体2ヶ所くらい。けど、浅川マキの濃いファンが北海道には結構いてね、マキは、北海道ツアーをやるからにはっていう感じのマキ自身の意気込みもあった気がします。そういう思い入れが強い場所なんですね。

田家:1回目が1974年で、この93年は19年ぶりだった。

寺本:ツアーとしてはね。その他に札幌と旭川を2日間やるとかってことはあったし、呼ばれた場合には少ないメンバーで行くみたいなこともあったんだけど、自分で納得するメンバーと一緒にツアーをする北海道は、2度しかやってません。

田家:93年は札幌、小樽、旭川、根室、釧路。釧路生涯学習センター大ホールは800人ぐらい入る大きめのホールですもんね。

寺本:このツアーは札幌に行ったくらいで、全部付きあったわけじゃないけど、1回目のツアーのときは演出のこととかあって全部同行しましたね。公演場所を決るために下見に行ったとき、かならずマキと客席のあらゆる場所に行って、手を叩いて音の確認をするんですよ。「壁に音が吸い込まれないし、いい反響だわ、ここの小屋でやろうよ」って。釧路の生涯学習センターは、いわゆる多目的ホールみたいなところで、マキと柴田は音鳴りをチエックしてここにしたんだと思うんです。録音された音を聞きながら、選曲するとき、ここがいちばん音鳴りがいいなって思ったのと、マキが気合入れてやっているんですけど、ツアーも最終日だし、カラダから「頑張らなきゃ」みたいなのも落ちて、「最後だね」っていう感じがマキの歌にもMCも全部出てるんですよ。

田家:19年ぶりの北海道ツアーの最終日ということで、そこに南正人さんが遊びに行きました。その曲をお聞きいただきます。「今夜はオーライ」。

今夜はオーライ / 浅川マキ with 南正人

田家:『1993年6月30日「浅川マキ・北海道ツアー最終日」@釧路・生涯学習センター・大ホール』の中の「今夜はオーライ」。本当に最終日の飛び入りセッションって感じですね。

寺本:この現場に行ってませんけど、浅川マキと南がこんな感じでやるっていうのは、素晴らしいと思ったな。

田家:他と違いますもんね。

寺本:全然違う。

田家:この曲は83年のアルバム『幻の男たち』に入っておりますが、このライブセレクションボックス、ユニバーサルに残されてるいろんなライブテイクを基になったって話がありましたけども、改めて思うのはどういうことですか。

寺本:いや、しつこいけど、やっぱり「人は死ぬが 歌は死なない」っていう実感が今すごくありますね。これを監修して、それがいちばん今のぼくの中に大きくドーンと入ってくるコトバですね。

田家:ユニバーサルにそれだけ残ってたっことも素晴らしいことですね。

寺本:ぼくも含めて、マキにかかわるスタッフは、マキが死んでも変わってないですよ。東芝EMI時代からユニバーサルに移った人たちにも、自分の中に浅川マキが続いてるんですよね。

田家:世代を超えるという意味では、寺本さんは、マキさんを歌う今の歌い手さんのプロデュースもされてるんでしょう。伊香桃子さん、『浅川マキ リスペクトアルバム「Good-bye -浅川マキを抱きしめて-」』ってアルバムが出たりして。どんなことを伝えていきたい、何を感じ取ってほしいと思いますか?

寺本:具体的に感じていってほしいとかじゃなくて、伊香桃子は16歳のときに浅川マキの「朝日楼」を聴いてドーンときちゃって、浅川マキの歌を今も49曲歌えるっていうんですよ。そういう意味では、伊香桃子の中にある浅川マキとぼくが向きあったとき、歌はやっぱり死なないんだ、なんて実感して今もやってます。

田家:なるほどね。今後もそういう活動っていうのをお続けになるわけでしょう。

寺本:続けるでしょう。

田家:命ある限り、歌がある限り。お元気で続けてください。

寺本:こういう番組に出してもらって、あなたと久しぶりに話をして、浅川マキの歌を聴いて、それがおれの元気の源なのよ(笑)。

田家:またお越しください。どうもありがとうございました。


流れているのは、この番組のテーマ竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

寺本さんは1938年生まれですね。今84歳、今年の8月で85歳です。年々自分より年上の方というのが少なくなってくるわけですが、寺本さんは、そういう中でも最も先輩で、そして精力的に活動されてる1人と言っていいでしょうね。

浅川マキさんを歌う伊香桃子さんのライブのプロデュースも彼がしています。伊香桃子さんは出身が神戸なんです。阪神大震災のときに自宅が全壊する体験もしてるんですね。マキさんの命日が1月17日、阪神大震災と同じ日だった。25歳の時、伊香さんはマキさんのライブのオープニングが決まった。その知らせをもらった翌日にマキさんが亡くなってしまった。それがやはり阪神大震災と同じ1月17日だった。これもやっぱり縁と言っていいんでしょうね。

ボックスの寺本さんの私的ライナーの中には、それぞれのライブの縁がつづられてます。いろんな方たちが登場してます。そして登場された方のほとんどが、もうこの世にいらっしゃらない。でもそういう人たちが残した音というのが、こうやってボックスになって、マキさんを知らない「アングラの女王」という言葉も聞いたことがない。でも今の世の中が眩しくて、うまく生きられない人たちに届いてるのが、歌は死なないということでもあるんだろうと思います。音楽は人の手によって伝わっていきます。寺本さん、84歳のプロデューサーの伝言が、このボックスセットなんではないかと思ったりしました。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

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