1870年6月21日、天津住民がフランスのカトリック教会を襲撃した(天津教案)。

 1858年の「天津条約」によって、清政府は国内でのキリスト教の布教者および信者に対する保護を約束した。
これを受けた教会建設のための土地取得などをめぐって、各地で外国人宣教師と非キリスト教徒の衝突が相次ぎ、全国にキリスト教排斥運動が広がっていった。

 1870年春、天津では幼児の失踪事件が相次ぎ、市民の間ではフランス教会が経営する孤児院に疑いの目が向けられた。6月、疫病の流行で同院の子供約40人が死亡すると、民衆の怒りと疑いがますます深まった。

 20日、誘拐の容疑者が逮捕され、「首謀者は教会信者で、教会も誘拐事件に関わっている」と供述したとの知らせに、怒った民衆数千人が孤児院の前に集結した。

 21日午後、フランスの駐天津領事フォンタニールは、北洋通商大臣の崇厚に対し民衆鎮圧のための派兵を要求。その後、天津知県の劉傑と口論になったフォンタニールが、発砲して劉傑の従者を殺害したことなどがきっかけで暴動に発展。民衆は仏領事館や教会を襲撃し、フォンタニールとその秘書をはじめ、修道女、神父、領事館員などの外国人20余名、中国人信者30名余名が惨殺された。

 事件後、仏、英、米、独など7カ国は軍艦を天津、煙台沖に集結させ、清朝に対して示威を行った。清朝は直隷総督の曽国藩、続いて李鴻章に調査を命じた結果、孤児院による幼児の誘拐はなかったと確認し、暴動の首謀者20人を処刑したほか、銀49万両を教会再建のための賠償金として支払った。(編集担当:梅本可奈子)

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