これにより、河北省東部に日本の傀儡政権が建てられることとなった。
1932年3月に満洲国建国を宣言した後、関東軍は熱河省(現在の河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の境界付近)を武力で満洲国に併合。さらに万里の長城(長城線)を越えて河北省へ南下し、国民政府軍との本格的な交戦が発生した
だが、当時の国民政府が日本との決定的な対立を避けたい方針だったことや、日本が国際連盟を脱退して孤立を深めていたことから、停戦交渉が進められ、1933年5月、国民政府軍が河北省北部から撤退することなどを柱とした「塘沽(タングー)協定」が締結された。
その後、関東軍は華北5省の自治を模索し、日本政府は華北分離政策を正式に採用した。当初、関東軍は、蒋介石に不満を持つ29軍軍長の宋哲元に自治政府発足の話を持ちかけ、武力を背景に迫ったが、宋哲元はこれに応じなかった。このため、日本への留学経験があり、日本人を妻にもち、親日派として知られる殷汝耕に白羽の矢が立てられた。
1935年11月23日、殷汝耕は天津の日本租界において、華北分離工作の主導者である土肥原賢二らと会談。24日、通州に戻ると自治を宣言し、翌25日には、通州を首都とし河北東部22県を管轄する「冀東防共自治委員会」が正式に発足した。同委員会は1カ月後に「冀東防共自治政府」と改称した。
しかし1937年7月に冀東防共自治政府保安隊保安隊が日本軍留守部隊兵士と日本人居留民を虐殺する「通州事件」が発生。その後政府は唐山に移り、1938年2月には北京の臨時政府に合流し、成立から約2年で消滅した。(編集担当:梅本可奈子)
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