1980年10月21日。巨人軍・長嶋茂雄監督は午後5時過ぎから読売新聞本社7階会議室で、監督辞任の記者会見に臨んだ。

前日の20日。巨人は広島市民球場(当時)での今季最終戦を白星で飾り、61勝60敗。Aクラスを確保した。それから1日。背番号90は77年以来、優勝から遠ざかっているというチームの不振を理由に、辞表を提出。「男のケジメ」という言葉に、全ての思いが集約されていた。

 このシーズン。いつの頃からか「長嶋辞任」が公然とささやかれるようになっていたが、誰もが信じなかった。いや、信じたくなかった。あのミスタープロ野球が、太陽がグラウンドからいなくなる―そんなことはあり得ない。そう考えていた。報知新聞社が発行する「月刊ジャイアンツ」の編集者もそうだった。

 運命の10月21日のドキュメントが後日、発売された「報知グラフ秋号 長嶋茂雄 愛をこめてこの一冊」に掲載された。執筆したのは、長く報知新聞、月刊ジャイアンツで巨人を取材した名記者の平田翼(故人)。今、改めて日本中が驚がくした「あの日」に何が起きていたのか。この「報知グラフ」の記事を一部、再掲載して振り返る。

 きょうで何日たっただろう。坂道を下りるときの胸の動悸(どうき)、そして坂道を上がるときの、弾むような足取り。きょうも大丈夫だった。

 始発電車の音が風に乗って我が家に聞こえてくると、家を出た。駅に向かうダラダラ坂を下りながら、いつも自分に言い聞かせた。「ウソに決まっている。デマだ。ガセネタだ。

きっと、そうなんだ」

 駅が見えてくる。胸の動悸が激しくなる。駅の売店は今、開いたばかりだ。怖々とのぞいた。今、包みを開けたばかりの各スポーツ紙が、積み上げられている。サーッと目を通す。何もなかった。「ホラ、やっぱり違うじゃないか」

 あの90番が辞めるという、そんなうわさを初めて耳にしたのは、いつだったろう。ハナで笑った。そりゃあ、90番の采配に怒ったこともあった。「辞めればいいんだ」と自分の胸に毒づいたこともあった。

 しかし、そんなことはあり得ないと思うから、言ったまでだ。

 「本当に辞めてもいいのか。あの90番がグラウンドから消えても巨人を応援するか?」と聞かれたら「バカ、冗談言うな!」と言い返していたに違いない。

 「90番があぶない」―。

 そんなうわさは日を追ってヒタヒタと押し寄せてきた。本人も辞めるらしい、という情報も流れてきた。そんなバカな! 今やっと90番は若い戦力を一人前に育てて、来季への勝負をかけようとしているときではないか。今、辞めるわけがない。そうに決まっている。

 それでも不安だった。だから、朝一番の電車と共に駅のスタンドをのぞいては、胸をなで下ろして、もう一度、フトンの中に潜り込む日が続いた。

 そして、あの21日がやってきた。雨だった。

だんだん安心してきた。今日だって売店でスイとUターンして、まだぬくもりの残るフトンに潜り込むとするか。サーッと見ようとして、息が詰まった。赤い字、青い字。そこに信じられない、絶対に信じたくない文字がデカイ顔をして躍っていた。

(中略)

 ▼午前7時 王は夫人に肩を揺すられて目を覚ました。1年間は終わった。明日を考えずに初めてグッスリ寝られるという朝。夫人の差し出すスポーツ紙に「まさか…」と言ったあと、絶句した。

 その時、90番はラジオの電話インタビューに答えていた。「何も分からない」と言葉を濁した後、しかし、こう言った。

 「せっかく若手が育ってきたのに今、辞めるのは残念だ。

無念で仕方がない」

 長嶋が辞める。それは途方もないニュースだった。野球を知らなくても長嶋を知らない人はいまい。長嶋のプレーを見てプロ野球のファンになった人も大勢いる。巨人は負けてもいいけど、長嶋に打ってほしいという人もいた。長嶋は日本人の代表だった。

 「長嶋が監督を辞めるんだってさ」

 「そうか。現役復帰か」

 そんな学生のやりとりを聞きながら、でも、ちっとも笑えなかった。監督を辞めても、そうなってほしいなあ。できるわけはないけど、本当にそう思った。長嶋のユニホームが見られるのなら何だっていい。

 ▼午前8時 千代田区大手町の読売新聞社と大田区田園調布の長嶋監督宅に大挙して報道陣が押しかけてくる。

 ▼午前9時 球団本部の仕事が始まった。一斉に鳴り出す電話。職員の手の休まる暇はない。答えは誰も同じだ。

 「球団では、そんな発表はしておりません」

 誰もが長嶋を思う。辞めるなんてあるわけはない。

 「お騒がせして済みません。まったく、あの報道は事実無根です。来年も長嶋監督です」という答えをこの耳で聞きたいばっかりに、北海道からも九州からも電話は殺到した。そして誰もが願った言葉は聞かれなかった。

 そして、長嶋宅もひっそりと静まりかえっていた。

 ▼午前10時53分 インターホンを通じて監督と報道陣の対話があった。

 「今、オーナーからの電話連絡を待っているところです。その他については今は答えられません」

 プツンという切れた音。なぜか、何もかもが切れていくような気がして。

 ▼午後1時10分 球団事務所。広報担当が「午後3時から役員会、午後5時過ぎに監督問題について発表があります」と約200人の報道陣に発表。不安がドンドン広がって、雪だるまのように膨らんでいく。必死に踏ん張る。必死にこらえた。

 セ・リーグの鈴木会長がこう言ったという。「長嶋辞任? それはない。かけてもいい」その一言が神の声のように聞こえてくる。

 ▼午後2時56分 長嶋宅のインターホン。「たった今球団から電話があり、5時に球団で会見をします」

 間違いなく長嶋監督の声。ダメだ。もうダメだ。もう立ち上がれそうにない。

 ▼午後4時57分 正力オーナーの発表。何も語ることなし。

 ▼午後5時10分 我らが監督がやってくる。全くいつもと同じ。さわやか。さわやかすぎるほどだ。

 「優勝できなかった責任はすべて私にあります」

 心の中で“異議あり”と叫ぶ。

 「正力オーナーや代表が私の今後を心配し、フロント入りを勧めてくれたことに関し、感謝の気持ちでいっぱいです。しかし、私は23年間、グラウンドで育った男です。フロントの仕事は適任ではないので辞退させていただきました」

 なんて爽やかなのだろう。長嶋茂雄、あくまで爽やかに生きてゆく。

 ―フロントとの対立がうわさされていますが?

 「いえ、そんなことはありません。2000万人とか2500万人とかいわれるファンの皆さまに対して成績が不本意ということで、男としてのケジメをつけ、責任を取りたいということです」

 ―ファンの中には辞めないでという声が…。

 「気持ちの上ではうれしいが、野球の世界では結果のみが優先します。気持ちだけは温かく胸の中に秘めておきます」

 どんなときにも笑顔でほほ笑んでくれた男は、今、こんな苦しい時にも、爽やかな笑顔がこたえていた。 どうして? なぜ? ただ分かるのは、だから長嶋茂雄が大好きだったということだけ。

 現役引退で一度は日本中を泣かせた男が、二度までも、また泣かせてくれている。

 ▼午後6時7分 素晴らしい男が爽やかな風を残して自宅に引き揚げた後、杉下コーチが辞表を持って球団本部にやってきた。杉下さんがとっても好きになってくる。

 ▼午後8時30分 高級住宅街の田園調布。長嶋宅の前に若いサラリーマン4人がやってきて、「長嶋さんに会わせてほしい」とインターホンを押した。会えなかった。でも4人は満足していた。ここまで来たということに。声を合わせて長嶋宅に向かって叫んだ。「ナ、ガ、シ、マ、頑張れ!」

 日本列島、長嶋ではないけれど「2000万人とか2500万人とか」という“長嶋ファン”が、たまらない一夜を送っているに違いない。ただ、うれしかったのはテレビでしか見られなかったあの記者会見に、いつもの長嶋監督がいたことだった。

 涙もなかった。愚痴なんか一つもこぼさなかった。まして、うらみのニュアンスなんか、これっぽっちもなかった。代表質問に必ず「ハイ」と答え続けた爽やかな弁。

 ―ファンに一言。

 「いろいろと支援、声援をいただきながら期待に応えられず言葉もない。しかし、巨人は次の指揮者のもとに、ずっと続いていくのだから、私と変わりなく声援していただきたいと思っている」

 そういっても、今は無理。あまりにもショックは多すぎる。あの記者会見が終わって4時間。まだ、あのシーンが強烈な印象として頭に焼き付いて離れそうにもない。きっといつの日か…。

 ―何年かたってユニホームを着るということは?

 「これは分かりません」

 長嶋は“不死鳥”だという。何度、限界説をささやかれながら、よみがえってきたではないか。監督就任1年目のシーズンに最下位になりながらも、翌年は奇跡の初優勝でファンを歓喜の渦にたたき込んでくれたではないか。

 きっといつの日か、あの爽やかさを、もう一度、運んでくれるに違いない。それがいつかは、本人にも分かりはしないだろう。いつ、どこで、あのミスタープロ野球は帰ってくるのだろうか。しばらくは野球界から身を引いて、アメリカにでもフラリと行ってきたいと親しい友に漏らしていたという。

 まったく野球界から縁を切った男が、いつの日か、さっそうとグラウンドにその雄姿を見せたとき、また新しい時代がやってくる。23年間、グラウンドで育った男が、そのまま出て行って戻ってこないなんて考えたくもない。長嶋宅を見上げて、そう自分に言い聞かせてみる。ちょっぴり心が晴れてくる。

 ▼午後11時30分 人の通りも途絶えた道を一人の女性がやってきて、花束を長嶋宅の玄関にソッと置いて駅の方へ戻っていった。

(後略)

 ◆平田 翼 1940年10月9日、東京・港区生まれ。学習院高等科3年時、夏の甲子園の都大会で早実のエース・王貞治に3打数3三振に抑えられて野球を断念。その後、巨人入りした王を取材しようと63年に報知新聞社入社。巨人の番記者としてV9を取材するなど長く活躍し、その後は「月刊ジャイアンツ」の編集長を務めた。80年代前半のフリー転身後は、ラジオ日本「ジャイアンツナイター」の解説者をはじめ、日本テレビ系「ズームイン!朝!」などに出演。2012年12月30日、72歳で死去。

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