長嶋茂雄さん(享年89)からの熱心な誘いもあり、1994年オフ、FAで広島から巨人に移籍した川口和久氏(66)。当時の長嶋さんらしい交渉の内容、そして96年、胴上げ投手として「メークドラマ」を完成させた選手冥利(みょうり)に尽きる舞台裏などを明かした。

(取材・構成=岸 慎也)

 1996年10月6日。首位・広島との最大11・5差を逆転しメークドラマ【注1】を完成させた日を、川口は昨日のことのように覚えている。ナゴヤ球場での中日戦。宿舎で朝食中に、マネジャーから長嶋監督の部屋に行くように言われた。先発の宮本和知ら、登板予定の投手が同様に呼ばれていた。

 「長嶋さんから『どうしても今日優勝したいんだ。とにかくピッチャーが頑張ってほしい。先発はとにかくイニングを投げなさい。中継ぎ陣もしっかり1イニングを投げて、川口くん、最後は君がいくんだよ』と。言われた時は鳥肌が立ちました」

 この年の途中から抑えを任された川口が8回途中から1回1/3を無失点に抑え、セ・リーグ制覇。「本当に一日が長かった。(97年と2年間で)4セーブしか挙げていないけど、最後に投げるというのは信頼していただいたのかな」

 巨人への移籍も長嶋さんがいたから実現した。

FA権を行使した94年のオフ。広島の自宅にいた時だった。淳子夫人から「ナガシマさんから電話よ」と言われ、受話器を受け取った。

 「どちらのナガシマさんか、分からなかった。カープにもナガシマさんという名字の方がいたので。誰だろうって感じだったけど、すぐ分かりました。あれ、この声はひょっとして、と。『FAしたんでしょ?』と言われ『はい。しました』って言ったら、『じゃ、明日会おうね』って、一方通行で電話は切れました(笑)」

「ガキ」からファン 翌日、東京のホテルオークラに向かった。「ガキの頃から長嶋ファン。カープの選手でありながらジャイアンツファンだったので正直うれしかった」。直接話したのは初めてだった。

 「部屋をノックしたら出てこられました。握手をして『どうもー』って。手が大きくて大感激。このまま帰ってもいいかなと思ったくらいです(笑)。『川口くんはジャイアンツに何勝したの?』と聞かれて、『確か33勝です』【注2】と言うと、『去年は何勝したの?』と。『3勝か4勝しました(93年4勝、94年1勝)』と言ったら、『そうか。来年は4敗減るんだな、ウチはな』ってね」

 実はこの時点で西武からのオファーもあり、巨人入りは決断していなかった。しかし、長嶋さんの語り口調はもう巨人に入団するかのようだった。

 「当時、大の巨人ファンだった女房のお父さんが膵臓(すいぞう)がんで、多分長くはないですと言われていた。もちろん、自分も子供の頃からの憧れだった。夢がかなうのと、義理の父親の冥土(めいど)の土産と、2つそろったんで、行くしかないかなと」

 小学生の頃、投手でありながら監督に「背番号3番をください」と要望。「じゃあ、ファーストやれ」と言われたこともある。

憧れの人の下で過ごした4年間。長嶋さんは、やはりスターだった。

 「長嶋さんはあんぱんを結構食べるんですけど、半分だけなんですよ。で、半分だけ置いてあるんですけど、『長嶋さんが食べたやつだ!』と言って、みんな取り合いになることもよくありました」

 勝負師としての一面も目にした。当時の宿敵は野村克也さんが率いるヤクルトだった。

 「ヤクルト戦に勝つと上機嫌になるんですよ。『今日はいいゲームだったぞ!』とか。ヤクルト戦は気合入るんだなと。本当にうれしそうでね。普段は飲まないけど、『きょうはビール1杯くらいは飲むかな』と言っていましたよね」

 川口は98年限りで現役を引退。その後は巨人でコーチを務め、今は地元の鳥取に戻り、米作りなどを行っている。

 「僕の野球人生は長嶋さんで始まって、長嶋さんで終わったというところです」

【注1】7月6日時点で巨人は4位で首位・広島に11・5差。

その後、43勝17敗で逆転優勝。長嶋監督が掲げた「メークドラマ」は、同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた。

【注2】巨人戦は歴代10位タイの33勝(31敗)。

 ◆川口 和久(かわぐち・かずひさ)1959年7月8日、鳥取県生まれ。66歳。鳥取城北からデュプロを経て、80年ドラフト1位で広島入団。86年から6年連続2ケタ勝利。87、89、91年に最多奪三振のタイトルを獲得。94年オフにFAで巨人に移籍後は主にリリーフとして活躍。通算成績は435試合で139勝135敗、2092奪三振、防御率3.38。引退後は巨人で投手コーチを務めた。現在は故郷の鳥取で米作りに励む。

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