◆報知プレミアムボクシング ▷後楽園ホールのヒーローたち第23回:後編 内山高志
骨折、ダウンというピンチを切り抜けWBA世界スーパーフェザー級王座の3度目の防衛に成功した内山高志だが、右手甲の手術のため長期休養を強いられた。
「練習ができるようになっても右は使えないので、半年以上、左だけで練習していた。
再び自分は左だけ、相手は両手を使う変則スパーを始めた。ジャブ、フック、アッパー。ジャブはいつしかストレートの威力になったことを実感した。
三浦戦から11か月後の2011年12月31日。大みそかの横浜文化体育館のリングで4度目の防衛戦を行った。対戦相手はWBA世界スーパーフェザー級暫定王者のホルヘ・ソリス(メキシコ)。11か月ぶりの試合ながら、序盤から落ち着いた試合運びで5回に左で相手をグラつかせる。11回、左フックでソリスを大の字に失神させると、レフェリーは試合をストップした。「チャンスを作るのはほとんど左でした。右が使えないと左がこんなにうまく使えるようになるんだ」と自分でも驚いたV4戦だった。
無敗の暫定王者ブライアン・バスケス(コスタリカ)との6度目の防衛戦(2012年12月31日)。5回に強烈な左ボディーで挑戦者の足が止まる。
本来は利き腕の右ストレートが一番のフィニッシュブローだが、左も遜色ないだけのパワーがある。ただ、決定的な違いもある。左は右以上に練習に練習を積み上げ、築き上げたものだからだ。アマチュアで全日本選手権3連覇など輝かしい成績を残しプロ入りした内山は、当初からパンチ力に定評があった。ゲームセンターのパンチングマシンを壊したなどの逸話があるように、デビューから3連続KO勝利を飾るが、強打者ゆえに右手も痛めた。
「プロ3戦目(2005年11月19日)が終わって右拳を手術したんです。仕方なく左を意識して鍛え始めたのはその時からです。そこで新しい発見ができたのは、まさにけがの功名でした。強く打てるパンチが増えましたから」
成功した今だから美談として話せる。当時は、日々不安でしかなかったという。
「1年間ぐらいブランクを作るんですが、勤めていた会社も辞めてお金もなくて…。住んでいたのは月4万5000円のアパート。近所のスーパーが毎日22時30分になると、総菜が半額になるので、それを目当てに毎日スーパーに晩ご飯を買いに行っていた」
はい上がるために遮二無二にサンドバッグに向かいパンチを打ち込んでいた時代。右がダメなら、左だけでもと、先は見えなくてもひたすら努力した。三浦隆司と対戦(2011年1月31日)した3度目の防衛戦前の練習で行っていた、自身は左だけ、相手は両手という変則スパーは、デビュー3戦目直後からスタートしたもの。積み上げた努力を世界の舞台で結果に結びつけた数少ない成功例とも言えるだろう。
内山に一番の武器を聞くと、間髪を入れずに「ジャブ」と言う。利き腕の右にも自信はある。「いきなりの右は当てようと思っても当たらない。
世界戦でのKOが評価され、WBAから年間KO賞を日本人で初受賞。スーパー王者にも認定され、現役時代の功績は輝かしい。ただひとつ残念だったのは海外進出を逃したことだ。「あの当時、自分としてはWBO王者のマイキー・ガルシア(米国、4階級制覇王者)と統一戦をやりたかった」と述懐した。交渉しながら最終的には破談となり、内山は日本で12度目の防衛戦(2016年4月27日)としてジェスレル・コラレス(パナマ)の挑戦を受け、2回KO負けした。海外進出を逃したモチベーションの低下などが原因とする報道も流れた。「それは違います。世界戦のリングでモチベーションの低下などはない。自分にはかみ合わずにやりづらい相手でしたから」という。
これからはジム会長として選手を育て、プロボクシング界を盛り上げていく。「新しいことに挑戦するのが楽しみで仕方ない。ルーキーの気分で頑張りたい。内山が育てた選手はたいしたことがないと思われたくないですから」と相好を崩す。未来の「内山2世」はKOパンチャーなのか、それとも左の使い手か。期待して、待ちたい。(近藤 英一)(敬称略、おわり)
◆内山高志(うちやま・たかし) 1979年11月10日、長崎県出身、埼玉県春日部市育ち。45歳。花咲徳栄高1年でボクシングを始め、拓大4年から全日本選手権3連覇などアマ戦績は91勝(59KO)22敗。2005年7月にプロデビュー。