空手家・佐竹雅昭(60)が今年、格闘家人生45年を迎えた。空手家を志し15歳で「正道会館」に入門。

ヘビー級の空手家として異種格闘技のキックボクシングに挑戦。その実力と開拓魂、さらには明るいキャラクターで一般大衆にもアピール。それまで格闘技の興行は「入らない」が定説だったが、佐竹の存在が常識を覆し1990年代に立ち技系格闘技イベント「K―1」を生み出し人気は沸騰した。今年は佐竹がキックに初挑戦した1990年6月30日に日本武道館で闘ったドン・中矢ニールセン戦から35年。スポーツ報知は格闘技界に絶大な貢献を果たした佐竹を取材し、現在の格闘技人気につながるニールセンとの歴史的な一戦をはじめ空手家人生を代表する「十番勝負」を連載する。一番勝負はニールセン戦(前編)。

 佐竹は、1965年8月17日に大阪・吹田市で生まれ育った。中学時代に書店で極真会館を創始した大山倍達の著書「地上最強への道 大山カラテ もし戦わば」に出会い空手家を志した。高校へ進学後の15歳で大阪・天満の「正道会館」総本部道場へ入門。180センチを超える恵まれた体格と持ち前の格闘センスに努力を重ね頭角を現し、1987年の全日本選手権で初優勝し、89年まで3連覇を飾った。

 その後、関西外大を卒業後、内定していた就職先を蹴って空手家として生きていくことを決意。当時、プロレス界で一大ブームを起こしていた新生UWFの前田日明へ挑戦を名乗り出るなど戦いの場所を空手界だけに収まらない行動を起こしていた。

そんな渦中で決まったのが1990年6月30日、日本武道館でのドン中矢ニールセンとの闘いだった。

 米国のキックボクサーだったニールセンは、1986年10月に新日本プロレスのリングで前田と異種格闘技戦で対戦。敗れたが当時の日本キック界で知名度は、群を抜いていた。人気を持つニールセンとの一戦は、契約体重91キロでキックボクシングのルール。グラブを着けて空手にはない顔面への打撃があるルールは、圧倒的不利だった。それまでにもグラブを着けてキックに挑戦した空手家はいた。しかしヘビー級の体格を持つ空手家では佐竹が初めてだった。過酷な賭けでもあった一戦だったが、佐竹には闘う理由があった。

 「当時は、一日でも早く正道会館をやめたかった。やめて早くプロになりたかった。そのころは格闘技よりもプロレスが圧倒的に人気でしたから、プロレスラーになることも考えましたよ。それこそ前田さんのUWFの試合も何回も見に行きましたし、SWSを旗揚げした天龍源一郎さんとも会ったこともありました。

当時、デスマッチで大人気だった大仁田厚さんのFMWの試合も見に行ったりいろんな団体を調査してました」

 佐竹にとってニールセン戦は、プロ転向第一戦だったのだ。

 「こんなこと、自分で言うと生意気だ、とか言われるかもしれませんが、もしも僕があの時に『プロになるしかない』と行動しなかったら今の日本の格闘技界はここまで大きくなっていなかったはずです。僕がそのままアマチュアとして空手をやっていたら、格闘技界の天下はずっとプロレスが握っていたでしょう。それも振り返ると言えることで、当時は自分の人生は自力で道を切り開くしかないと言い聞かせて行動していました」

 大会は全日本キックボクシング連盟が主催する「INSPIRING WARS HEAT 630」。24歳の佐竹は初めて日本武道館のリングに立った。

(続く。敬称略。取材・書き手・福留 崇広)

 

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