◆JERA セ・リーグ 巨人4―2中日(30日・東京ドーム)

 巨人の田中将大投手(36)が待望の日米通算200勝(日本122勝・米国78勝)を達成した。中日戦(東京D)に先発し、6回2失点の粘投。

レギュラーシーズン最終登板で3勝目を挙げ、金字塔を打ち立てた。日米通算での達成は、昨年のダルビッシュ(パドレス)以来、日本人4人目。王手をかけてから3連敗と苦しんだ末の大記録。楽天時代の2013年にシーズン24勝0敗の伝説を作り、名門ヤンキースでもエースを張った男が、昨季0勝の苦難を乗り越えた。

 想像を超える景色だった。心から、田中将は喜んだ。熱く抱き合ったのは幼なじみの坂本だった。「彼から花束をもらえる。これまでの野球人生で想像していなかった。思い出です」。日米通算432試合目。ずっと待ち焦がれた200勝の勲章を手に入れた。

 「感無量。最高です。ジャイアンツに入団してから、早く東京Dで勝ちたい、ヒーローになりたいと思っていた。ものすごく苦しかった」

 8月21日に王手をかけてから4度目の挑戦で、今季最終登板。何度も2軍で組んできた小林を自ら「指名」し、1軍初バッテリーで6回2失点。持てる力を全て出しきり、23年6月26日以来となる東京Dでの白星。最後はベンチで両腕を突き上げた。「集中したくても、打たれたらどうしようとか自分の弱さ、雑音が入ってきた。向き合って、打ち消して。その繰り返しだった」

 07年3月29日のプロ初登板は2回持たずKO。18歳から野村克也監督に使ってもらって今がある。「マー君、神の子、不思議な子」と笑ってくれた恩師には、降板後ベンチで毎回呼ばれた。

「一番大事なのはコントロールや」。隣で説かれた教えが礎になった。11年に19勝で沢村賞に輝いたが、翌12年は10勝止まり。星野仙一監督に言われた。「ワシにお前のボールがあったら、もっと勝っとるわ」。13年の24勝0敗は伝説となり、楽天に球団初のリーグV、日本一をもたらした。

 海を渡り、ヤンキースで日本人初の6年連続2ケタ勝利。地元ニューヨーク紙の痛烈な批判、連日のてのひら返しにも「英語やし分からん。読まんようにしてた」と鋼の心が盾になった。そんな名門の元エースが、深い闇に迷い込んだ。頭と体が連動しない。「フラストレーションがたまった」。

答えが見つからぬまま、昨季は18年目で初の0勝に終わった。

 トンネルでもがく時、再び“師”と巡り会った。197勝で足踏みする姿を見て久保巡回投手コーチは言った。「あれだけの王様が崩れすぎや。もったいないわ」。キャンプ初日から猛特訓を受け、軸足が潰れて腕が下がるフォームを縦回転で体を使う動きに一新。「分岐点は久保さんと出会ったこと。感謝しかない」。2月1日から約8か月。共に歩んだ先に200勝があった。

 昔から「努力の田中」だった。坂本は小学生の頃から「天才」と称され、周りが習得に1週間以上かかる練習を2日でクリアした。

一向にできない自分が嫌だった。自宅で寝そべり、天井に跡がつくまで球を投げ続ける日々が始まった。周囲に隠し、指先の感覚を鍛えるようになった。“コソ練”は25年以上たった今も続く。「将大さんがいない」―。練習後にスタッフが探しに行くと、誰もいない暗闇でいつもネットを揺らす姿があった。「ハヤト」に負けじと始めた努力は、類いまれな才能へと変わっていた。

 今年で37歳。「先は長くない」と引き際もよぎるようになった。練習日は朝6時前に目を覚まし、開始2時間以上前に球場入りして体をほぐす。手には、まい夫人特製のワカメとタラコのおにぎりが2つ。力になった。

「自分をいいパパなんて思わないけど、妻、息子、娘はどんな時も応援してくれる。つらい部分をたくさん見せてる。もっともっと勝つ姿を見せてあげたい」。家族全員と愛犬のイニシャルを刻んだグラブを手に、85球に魂を込めた。

 諦めなかった。「もう期待はされていない」と楽天を退団し、求めた新たな勝負の場。阿部監督からはCSでの先発起用も明言された。「ここがゴールじゃない。一つでも勝ちたい。変化を恐れていたら、進化はできない」。盟友のいる笑顔の輪の中で大偉業にたどり着いた。(堀内 啓太)

 ◆田中 将大(たなか・まさひろ)1988年11月1日、兵庫県出身。

36歳。駒大苫小牧(北海道)では甲子園に3度出場し、2年夏に優勝、3年夏に準優勝。2006年高校生ドラフト1巡目で楽天入団。13年オフにヤンキースに移籍し、21年楽天復帰。25年巨人移籍。13年MVPの他、沢村賞2度、最多勝2度。188センチ、97キロ。右投右打。好きな言葉は「氣持ち」。今季年俸1億6000万円(推定)。

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