プロボクシングのライト級で日本人初の世界王者になり、タレントとしても活躍したガッツ石松さん=本名・鈴木有二=が2日に死去したことが11日、分かった。76歳だった。

プロボクサーから芸能界に転じて成功した原点は、1974年4月11日、東京・両国の日大講堂で行われた、ロドルホ・ゴンザレス(メキシコ)とのWBC世界ライト級タイトルマッチ。8回KO勝利で世界の頂点に立ち、引退後は国民的テレビドラマから、ハリウッド大作にも出演。数々の活動を振り返った2009年のインタビューの一部を再録する。

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 ゴンザレス戦は報知さんの主催だったよね。おれにとっては何と言っても、人生が変わった一戦だった。それまでのおれは11回も負けていたボクサーだよ(42戦26勝14KO5分け)。世界チャンピオンなんかになれるわけなかった。だけど8年間ボクシングやって、敗戦も含めいろんな経験をし、やっと「応用問題」が解けたんだよ。仕事もほかのスポーツでも、応用が利くか利かないかでしょ。

 当日は交通ゼネストで観客の入りも心配してたんだけど会場も満席。でも相手はおれを三流と見下していたはずだ。ところがどっこい、足は動くし左ジャブは当たる。

スタミナも根性も申し分なかった。

 心技体と言うけど、おれは体技心。体力なかったら、技も根性も出し切れないでしょ。ゴンザレスが試合の3か月前、毒グモに刺されたのも朗報だった。試合が延期されたので、伊豆の湯ケ島へ2度目の合宿に行き、コンディションを完ぺきに作り上げたね。

 「幻の右」は勝てば官軍、おれが試合後に勝手に命名した。距離を測るように左をちょっと出す感じで右を当てる。自分なりに作ったコンビネーションです。

 幻と言えば、会長にさえ隠し通してきた娘・有紀をリングの上で抱き上げ、お披露目できたことがうれしかった。おれはできちゃった婚のはしりだよ。

 「体」を思い知らされたのはその前の年(1973年9月)、パナマで(元世界4階級王者の)ロベルト・デュランに挑戦した試合。10回KO負けだったけど、本当は“イヤ倒れ”ですから。

暑いし体力もなかった。「石の拳」の名の通り、デュランのパンチはゴツンゴツンと痛く、馬力もあった。10回にボディーにもらって倒れ、立ち上がってまた倒れ。でも、2度も3度も立ち上がるのは効いてないってこと。最後は死んだふり。だから“イヤ倒れ”。控室に戻ってクーラー浴びたら、また元気になって。シャドーボクシングしてたら会長(米倉健司)に怒られました。

 6度目の防衛に失敗した翌年(77年4月)、1階級上げてJ・ウエルター(現スーパーライト)のセンサク・ムアンスリン(タイ)に挑戦したのは、はっきり言ってお金のためです。マージャン店やスナックやって借金があったからね。あるとき、テレビ朝日のプロデューサーと米倉会長が来て。打診だね。

「1500万円くれるなら、やっていい」って冗談言ったら、通っちゃった。

 テレビ番組にも出ていたから、合宿先と撮影の往復。試合(6回KO負け)は準備不足で体が動かず、見に来てくれたファンには本当に申し訳なかった。

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