山梨県の南アルプス市に旧陸軍の一式戦闘機「隼」の胴体が残っていました。実は、この一帯には戦争中、航空機の工場群が作られており、今でも滑走路の名残りや掩体壕、横穴壕などの遺構を見ることができます。

南アルプス市に残っていた「隼」戦闘機

 先日、筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)は、山梨県西部の南アルプス市にある「ふるさと文化伝承館」を日本軍機研究家の中村泰三氏と共に訪ね、以前から取材を希望していた同施設の資料室に残されている、とある航空機の一部を見てきました。

 今回見学したものは、旧日本陸軍が運用していた一式戦闘機「隼」三型の胴体の一部です。ただ驚いたのは、それが2個もあったこと。行く前は1個だけかと思っていたので、うれしかったです。

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毎年8月の1か月間だけ河口湖飛行館に展示される、一式戦闘機「隼」二型(キ43-II)の復元機体(吉川和篤撮影/河口湖飛行館の掲載許可済み)。

「隼」は優れた運動性能を活かして格闘戦を得意とした戦闘機で、太平洋戦争では中国大陸や南太平洋、ビルマ戦線や本土防空戦など幅広く使用されました。

各型合計で5700機以上造られ、そのなかで最終生産型といえるのが三型になります。

 このタイプは、水メタノール噴射装置を装備しエンジンを強化したのが特徴で、最高速度をはじめ大幅な性能向上が図られていましたが、開発元の中島飛行機は新たに誕生した四式戦闘機「疾風」の量産に専念する必要があったことから、三型の製造は立川飛行機が担当しました。

 南アルプス市に残されていた「隼」の胴体部品は、操縦席の後方上部にあたる箇所で、超ジュラルミン(アルミ合金)製。風防(キャノピー)のスライド用レールの溝や、メタノール供給口の円形穴が残っていました。さらに驚くべきことに、片方には外部や内側の一部にオリジナルの塗装も残っており、金属部分は腐食や劣化もなく新品を思わせる非常に良好な状態にありました。

 軍用機の定番カラーであるオリーブドラブ(濃緑色)にも似た外板の塗料は、陸軍航空機用に制定された「黄緑7号」と呼ばれたもので、アニメ監督で日本軍機研究家でもある片渕須直氏によると、黄色と黒色の2種類の塗料だけを混ぜて作られたのだといいます。

そしてその比率によって緑具合の見え方も異なるのだそうです。なお、外板の全体が塗られていない理由としては、プラモデルの製作と同様に、後で塗りにくい風防で隠れる箇所を先に塗装したからではないかと考えられます。

秘密工場群「ロタコ」とは?

 それにしても、どうして南アルプス市にこの一式戦闘機「隼」の胴体が、しかも2個も残されたのでしょうか。

 実は、甲府盆地の西側を流れる御勅使(みだい)川南岸の扇状地には、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年秋から、翌年の終戦日までアメリカ軍の空襲を避ける目的で、秘密裏に陸軍機の工場群、そして資材や工作機械を入れる横穴壕が、旧日本陸軍によって作られていました。当時のこうした活動を鑑みると、戦闘機の構成部品が残っていたのにも合点がいきます。

 なお、横穴壕の掘削にともない、滑走路や誘導路、航空機を空襲から隠したり保護したりする木製の掩体壕(えんたいごう)や航空本部施設なども作られたそうで、それら施設群は、総称して「ロタコ」という秘匿名で呼ばれました。

 この名前、実は「第二立川航空廠」の略称とも言われ、「ロ」はイロハで2番目を指し、「タ」は航空機製造会社の立川飛行機のこと、そして「コ」は航空廠(航空機の軍専用工場)を表していると考えられます。確かに旧日本陸軍では、我が国初の量産戦車である八九式中戦車のことをイ号、2番目の九五式重戦車についてはロ号、3番目の九五式軽戦車ではハ号と、それぞれ被匿名を付け、呼んでいました。

 他方で、それとは別に「ロタ」自体が立川航空支廠を表す被匿名だったのではないかという説もあります。

旧陸軍「隼」戦闘機の胴体なぜ山梨に!? 知られざる飛行場と秘密施設  幻の大本営移転とも関連アリ?
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山梨県南アルプス市の「ふるさと文化伝承館」で保管される、旧日本陸軍の一式戦闘機「隼」三型(キ43-III)の操縦席後部の胴体上部(吉川和篤撮影)。

 いずれにしても東京にあった立川飛行機、通称「立飛(たちひ)」は前述したように中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の移管生産を行っており、最終生産型である三型はほぼ全機の1500機が立飛で生産されていると伝えられるので、この甲府盆地にも新たな生産拠点を設けようとしていた事は確かでしょう。また本土決戦に備えた、大本営や政府機能の長野県松代市への移転計画を横目で見ながらのプロジェクトであったのかもしれません。

 しかし結局、1945(昭和20)年8月の終戦までには工場のフル稼動や航空機生産は間に合わなかったようで、せっかく地元の貴重な労働力を集めて作り上げた滑走路も数回しか使われなかったとか。くわえて、元々崩れやすい山の斜面に作られた横穴壕も戦後の物資不足で内部を支える木材が持ち去られてしまい、早々に埋まってしまったというハナシです。

 こうして「ロタコ」は関東どころか山梨県民にもほとんど知られずに、ひっそりと短い歴史に幕を閉じたのでした。

残された「隼」胴体、実は教育用だった?

 今回見学した一式戦闘機の胴体は、戦後に「ロタコ」の周辺にあった工場跡などから民間に金属素材として払い下げられた際に、軍用品として使用できないよう小さな四角い穴が幾つも開けられ、そのままの状態で市内の民家に保管されていました。そして近年になって「ふるさと文化伝承館」に寄贈されたそうです。

 ちなみに理由は不明ですが、どちらの胴体も下部が切断されており、たとえ工場が稼動していたとしても航空機のパーツとしては使える状態ではありませんでした。

さらに一緒に見学した中村泰三氏によると、どちらもリベットの打ち方にミスやその指摘を印した箇所があったことから、新米工員への教育用として悪い工作手法を確認させるための見本として存在した可能性も考えられるとのことでした。

 現時点では全て推測のため、これは今後も引き続き調査を行い、その結果が待たれます。ただ、いずれにせよ新品同様で残る軍用機の実物パーツは非常にレアで、日本の航空産業の歩みを伝える貴重な資料と言えるでしょう。

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長年に渡り南アルプス市教育委員会では「ロタコ」の調査が続けられ、こうした半地下式の陸軍型掩体壕の模型も作られた。実際はこの上に木製でカマボコ状の屋根が付く(吉川和篤撮影)。

 この「隼」の胴体は、普段は「ふるさと文化伝承館」の資料室に収蔵保管されており、一般公開はされていません。

しかし時折、郷土の戦争展などの企画展で表に出される機会もあります。また館内では、南アルプス市教育委員会が製作した「ロタコ」に関するガイドブックも配布されており、伝承館の近くにある前述の掩体壕跡は同市が土地を管理して、常に見学可能なようにしています。

 まだ世間にはあまり知られていない「ロタコ」と南アルプス市の戦争遺構ですが、双方とも歴史を伝える貴重なものであることは確かです。観光などで山梨県を訪れた際には、ぜひ「ふるさと文化伝承館」に立ち寄って、その知られざる現代史の一端に触れてみてください。