2025年3月、東京都港区でTAKANAWA GATEWAY CITY(高輪ゲートウェイシティ)が、まちびらきを迎えました。この高輪は鉄道誕生の地です。
TAKANAWA GATEWAY CITY(高輪ゲートウェイシティ)が、2025年3月27日にまちびらきを迎えました。高輪(東京都港区)は約150年前に開業した日本初の鉄道(現在の東海道線)が走った鉄道誕生の地です。そしてこの区間は海上に築堤し線路を敷設、つまり海の上を走っていました。
高輪ゲートウェイシティができる前の品川車両基地(画像:PIXTA)
「高輪築堤」と呼ばれるこの線路は、明治後期から大正初期にかけての埋め立てで陸地に取り込まれました。加えて輸送力を増強するために線路の増設が繰り返されたことで、築堤は完全に土に埋まり、いつの間にか姿を消してしまったのです。
ところが2019(令和元)年、開業以来同じ場所を走り続けてきた東海道本線(京浜東北線・山手線)の線路を高輪ゲートウェイシティ建設のために移設すると、高輪築堤は開業当時の錦絵に描かれたままの姿で出土したのです。
歴史の生き証人である高輪築堤は2021年9月に国の史跡に指定され、JR東日本は開発計画を一部変更し、出土した800m中120mの現地保存を決定。2027年度の一般公開が予定されています。
そんな高輪地区の150年の歴史と変化を解説する企画展「未来へつながる 鉄道とまちづくり展」が2025(令和7)年6月28日まで高輪ゲートウェイシティ(THE LINKPILLAR 1 SOUTH 6F Conference Hall B)で開催されています。
企画展のメインと言える「高輪ゲートウェイシティまちづくりクロニクル」では、立体模型に映像を投影する「ジオラマプロジェクションマッピング」や、古地図や航空写真を比較できる「東京時層地図」など、映像を交えて高輪エリアの歴史を分かりやすく紹介しており必見です。
企画展の内容をなぞりながら高輪の変化を見ていきましょう。
3線化に前後して田町~品川間の高輪築堤と陸地の間を埋め立て、鉄道用地として利用することになり、この頃から埋め立てが本格化します。1909(明治42)年には山手線電化に伴い4線化(複々線化)が行われ、同時に田町~品川間の海面約26ヘクタールを埋め立て、品川操車場を大規模拡張することが決定しました。
高輪に「広大な土地」を確保できた背景6年の歳月をかけて埋め立てが完了すると、品川・高輪一帯は鉄道運行の拠点となります。1914(大正3)年に東京駅が開業しますが、東京駅構内の操車場では対応が困難になったため、品川駅構内に機関庫や貨物ヤードを移設。ここから高輪・品川地区は鉄道の一大拠点に変貌していきます。
1930(昭和5)年に田町電車区、1942(昭和17)年に東京機関区、品川客車区が設置されるなど、鉄道網の拡大とともに拡張に次ぐ拡張が行われ、戦後は東海道新幹線の車両基地も建設されました。
しかし国鉄民営化に前後して、都心の大規模車両基地を有効活用すべきとの声が高まり、品川駅周辺から再開発が始まりました。国鉄が保有する価値のある用地は国鉄清算事業団が債務返済のために売却することになり、東口貨物ヤード跡地は「品川インターシティ」に、東海道新幹線東京第一車両所は「品川グランドコモンズ」に生まれ変わりました。
2000年代に入ると、再開発の波は高輪に押し寄せます。カギを握ったのは2015(平成27)年に開業した上野東京ラインです。
JR東日本が品川車両基地跡地に新駅を設置し大規模都市開発する構想を発表したのは2014(平成26)年6月ですが、上野東京ラインの整備計画を発表した2002(平成14)年時点ですでに「車両留置箇所の見直しによる車両基地用地の有効活用」が記されており、ふたつの構想は表裏一体で検討されてきたことが読み取れます。
JR東日本にとって幸運だったのは、民営化時に車両基地の縮小が想定されていなかったために車両基地がまるまる継承され、これを再開発できたことでしょう。しかし、その実現には鉄道機能の再編成、大規模設備投資など四半世紀以上の時間が必要でした。
企画展では高輪の変化だけでなく、路線、駅、車両など150年の鉄道史を取り上げています。高輪ゲートウェイシティ見物の際は訪れてみてはいかがでしょうか。