福島良一「MLBコアサイド」

 1973年の初渡米から47年にわたってメジャーリーグの造詣を深めてきた福島良一氏に、さまざまな魅力を伝えてもらう「MLBコアサイド」。今回は20年前のイチロー選手のデビューイヤーを振り返り、その後のメジャーリーグの変化について語ってもらいます。



イチロー初球宴から20年。アメリカの価値観を変えた偉大な軌跡...の画像はこちら >>

メジャー1年目でまだ若々しい当時27歳のイチロー

 ロサンゼルスのドジャースタジアムで行なわれる予定だった今季のMLBオールスターゲームは、7月3日に開催中止が正式に発表されました。1933年に始まった「真夏の球宴」が開催されないのは、第二次世界大戦の影響で中止となった1945年以来、75年ぶり2度目の出来事です。

 さかのぼること、ちょうど20年前の2001年7月10日。72回目となるオールスターゲームはシアトル・マリナーズの本拠地セーフコ・フィールド(現T-モバイル・パーク)で行なわれました。その全米中が注目するオールスターのファン投票で、最多得票を獲得したのがメジャー1年目のイチロー選手です。

 イチロー選手はア・リーグの1番センターとして先発出場。
初回、ナ・リーグの先発ランディ・ジョンソン(アリゾナ・ダイヤモンドバックス)からいきなり一塁への内野安打を放って出塁すると、すかさず二盗も成功させました。


 地元の新しいスターの活躍に、セーフコ・フィールドを埋め尽くした4万7000人もの大観衆からは盛大な歓声と拍手喝采の嵐。内野席で観戦していた私にとって、それは夢のような瞬間でした。

 あれから20年。イチロー選手はメジャーの殿堂入りへの証とも言える通算3000安打をはじめ、数々の金字塔を樹立。そして昨年3月、日本開幕シリーズで超満員の大観衆からイチローコールを浴びながら、メジャー19年の現役生活に別れを告げました。



 振り返れば2001年、イチロー選手は「メジャー史上初の日本人野手」としてマリナーズに鳴り物入りで入団。ただ、オリックス・ブルーウェーブ時代に日本プロ野球記録の7年連続首位打者に輝いたイチロー選手といえども、メジャーでこれほど活躍するとは誰も想像していませんでした。

 むしろ、広大な北米大陸を移動しながら年間162試合もプレーするので、「日本人は投手ならまだしも、野手は体力的に持たない」と疑問視する声が当時は大多数でした。「本場のパワーやスピードに太刀打ちできない」という懐疑的な意見も多かったと覚えています。

 しかし、イチロー選手は157試合に出場して打率.350、56盗塁をマークし、メジャー1年目で「首位打者&盗塁王」のダブルタイトルを受賞。黒人メジャーリーガー第1号のジャッキー・ロビンソン以来となる快挙を成し遂げたのです。



 また、シーズン242安打を記録し、ワールドシリーズの八百長事件で球界から永久追放となった伝説のスター、シューレス・ジョー・ジャクソンのメジャー新人記録も更新。メジャータイ記録となるチームの116勝に大きく貢献し、1975年のフレッド・リン(ボストン・レッドソックス)に次ぐ史上ふたり目の「ア・リーグ新人王&MVP」の同時受賞を果たしました。

 それ以来、2001年から2010年まで前人未到の10連続200安打を達成。2004年には262安打を放って「不滅の大記録」と言われたジョージ・シスラー(セントルイス・ブラウンズ/1920年)の持つシーズン最多安打を更新し、さらには10年連続でゴールドグラブ賞受賞……と、その活躍はとどまるところを知りません。

 投手と違って野手は毎試合出場するので、本拠地セーフコ・フィールドは連日大勢の日本人ファンで賑わいました。とくに、イチロー選手が守る「エリア51」と呼ばれるライト後方のスタンドは大人気。

場内には彼の名前にあやかって「イチロール」という巻き寿司も販売されました。

 イチロー選手の活躍によって、NHKのメジャー中継も急増します。野茂英雄投手がメジャーデビューした時は先発登板日に合わせて主に5日に一度でしたが、毎試合出場するイチロー選手を見たいファンのために連日放送。結果、国内でのメジャー人気はさらに高まり、より身近な存在となりました。

 さらに驚いたのは、全国のコンビニにオールスターのファン投票用紙が置かれたことでしょう。日本人選手として初めてイチロー選手の名前が投票用紙に記載された時は、感慨深いものがありました。
日本からの後押しもあって、イチロー選手は新人として史上最多の約337万票を獲得したのです。


 これほどまでにアメリカで人気となった要因は、卓越したプレーはもちろん、彼の放つ強烈な個性も大きかったと思います。「世界の王」と言われる王貞治氏のフラミンゴ打法、野茂投手のトルネード投法に匹敵する、イチロー選手の独特な打撃フォームはファンの心を惹きつけました。

 野茂投手がメジャーの道を切り開いたように、イチロー選手の活躍に刺激を受けて、ほかの日本人野手もあとを追いました。2002年には田口壮選手がセントルイス・カージナルス、2003年には松井秀喜選手がニューヨーク・ヤンキース、2004年には松井稼頭央選手がニューヨーク・メッツと、次々と海を渡ってくるようになったのです。

2016年6月15日に行なわれた敵地でのサンディエゴ・パドレス戦、当時マイアミ・マーリンズのイチロー選手は9回表にライトへ二塁打を放ち、日米通算4257安打をマーク。

メジャー歴代1位の通算4256安打を誇るピート・ローズの記録を日米合算で抜きました。

 日米合算でのローズ超えに対して、アメリカで異論があったのも事実です。しかし、敵地ながらも観客はイチロー選手に祝福の拍手を盛大に送っていました。途轍もない快挙の達成に敬意を評したのです。それは、アメリカの価値観を変えるような印象的なシーンでした。

 そのローズが最大の目標にした人物は、歴代1位の終身打率.367を残しているタイ・カッブ。1900年代初頭の「飛ばないボール時代」を象徴する大スターで、当時不滅の大記録と言われた通算4191安打をマークした「球聖」です。バントや盗塁、ヒットエンドランといったプレーで人々を魅了しました。


 しかし、1920年代にベーブ・ルースが出現すると、それまで見たこともないような豪快なホームランにファンは大熱狂。カッブが愛した野球は端に押しやられ、ホームラン時代が到来しました。

 その時、カッブは「今日の野球界では、肉体的な能力さえ備わっていれば、人より10メートル遠くへ打球を飛ばすだけで、誰でもプレーできるように見える。科学は無用の世界だ」と嘆いたそうです。

 それと同じように、イチロー選手がデビューした当時は「ステロイド時代」でした。マーク・マグワイア、サミー・ソーサ、バリー・ボンズらが筋肉増強剤を使用し、まるでホームラン競争のように打球を飛ばしていた時代です。

 それに対し、イチロー選手は数々の華麗なヒットで勝負。カッブが活躍した時代を甦らせると同時に、本来の野球の素晴らしさ、ヒットの価値を見直させてくれたのです。

 イチロー選手が現役引退する時の記者会見で、彼はこのような言葉を残しました。


「2001年に僕がアメリカに来てから2019年現在の野球は、まったく違う野球になりました。本来は野球というのは、頭を使わないとできない競技なんですよ」

 およそ100年前のカッブと、まさに同じような発言だと思います。

 現役引退5年後・有資格1年目の2025年、イチロー選手が日本人初の殿堂入りを果たすのは確実でしょう。昨年1月にニューヨーク州クーパーズタウンの野球殿堂博物館を訪れた時、すでにイチロー選手の展示品がいくつも飾られていました。

 長いメジャーの歴史のなかでも、イチロー選手が不世出のバッターであることは間違いありません。「21世紀のメジャーを変えた人物」と言っても、誰も異論はないでしょう。