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 日本サッカーのトップ・オブ・トップが日本代表だとすれば、そこでプレーする選手はエリート中のエリートと言える。

彼らの多くは少年時代から抜きんでた存在として注目を浴び、プロ入り後も順調に成長を続けて日本代表にまで辿り着く。

 ただ、成功例は少ないものの、中にはプロ入りしてから壁にぶち当たり、所属チームで出場機会に恵まれずにレンタル移籍を経験し、そこから日本代表にまで這い上がった選手もいる。そんなケースとして真っ先に思い浮かぶのが、現在セレッソ大阪でプレーする柿谷曜一朗だ。

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柿谷陽一朗はレンタル移籍で2年半、徳島でプレーした

 2006年、セレッソの下部組織出身の柿谷は16歳でプロ契約を結ぶと、その年の11月にはクラブ史上最年少記録でJリーグデビュー。同年9月のU−17アジア選手権ではU−17日本代表の優勝に貢献し、大会MVPにも輝いた。

 ところが、チームがJ2に降格した2007年から、柿谷のキャリアが暗転し始める。


 同期入団の香川真司が、そのシーズンの途中から指揮を執ったレヴィー・クルピ監督の信頼を勝ち取る一方で、逆に柿谷は次第に評価を落とし、出場機会が減少。さらに翌年には横浜F・マリノスから加入した乾貴士が活躍したことで、ますます柿谷の出番は失われていったのだった。

 クルピ監督から度々指摘されたのは、プロとしての自覚の無さだった。とりわけ練習に遅刻する癖はメディアでも報道されるようになり、指揮官も公(おおやけ)の場で柿谷を批判。もはやセレッソでの居場所は完全に失われた。

 2009年6月、ついにセレッソは、柿谷のJ2徳島ヴォルティスへのレンタル移籍を発表した。
それまでエリート街道を歩んできた柿谷にとって、当時J2の下位チームだった徳島への"左遷"は屈辱以外の何物でもなかったはずだ。

 しかし、その挫折をバネにして、柿谷はプロフットボーラ--として見事に生まれ変わって見せた。

 もっとも、約2年半にもおよんだ徳島での修業は順風満帆ではなかった。時にはスタメンから外されるなどスランプも経験したが、当時徳島を率いていた美濃部直彦監督の粘り強いサポートもあり、次第に柿谷はチームの大黒柱として成長。移籍3年目の2011年には、チームの4位躍進に大きく貢献した。

「徳島ではプロの選手としてサッカーをすること、チームで試合に勝つ喜びをあらためて感じることができました。

徳島で本当の意味でプロのサッカー選手としての歩みをスタートでき、3年前のことを忘れてもらうことは難しいと思いますが、早く皆さんに認めてもらえるよう、これからは大阪のピッチでセレッソのために全力で闘っていきたいと思います」

 セレッソ復帰が決まった2012年1月、柿谷はクラブを通して、そのようなコメントを寄せた。以降、別人のようになってセレッソに復帰した柿谷はチームの顔となり、翌2013年には日本代表デビュー。さらに2014年にはザックジャパンの一員として、ブラジルW杯出場を果たしている。

 エリートとして挫折を味わった柿谷とは対照的に、地道な努力を重ねながら日本代表に上り詰めた選手もいる。日立工業高校卒業後、1995年に鹿島アントラーズに入団した鈴木隆行である。

 2年目にトップデビューを飾ったものの、その後も出場機会を得られなかった鈴木は、1997年にジーコがブラジルのリオデジャネイロに創設したCFZ・ド・リオ(リオ州3部)にレンタル移籍。
翌年に帰国するも、選手層の厚い鹿島ではポジションを奪えず、その後もジェフ市原(現ジェフ千葉)、CFZ・ド・リオ、川崎フロンターレと、レンタル移籍を繰り返して経験を積んだ。

 ようやく鹿島でポジションを手にしたのは、プロ入り7年目の2001年のことだった。すると、当時日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督が鈴木を抜擢。同年5月から6月にかけて日本と韓国で行なわれたコンフェデレーションズカップのカメルーン戦で2ゴールをマークしたことで、鈴木のキャリアは一変した。

 そして翌2002年。日韓W杯のメンバー入りを果たした鈴木は、初戦のベルギー戦で伝説の同点ゴールを決めて一躍国民的ヒーローになる。

その後はレンタル先のゲンク(ベルギー)でチャンピオンズリーグリーグに出場し、2005年にはセルビアの名門レッドスターに完全移籍を果たした。

 それまでの約10年間で計6度経験したレンタル移籍によって成長した鈴木は、39歳まで現役を続け、2015年にジェフ千葉で21年間のキャリアに幕を閉じている。

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 一方、現役の日本代表選手に目を向けてみると、レンタル経験者が増加傾向にあることがわかる。

 たとえば、現在ポルトに所属する中島翔哉は、トップデビューを飾った東京ヴェルディで出番を失うと、FC東京に完全移籍してからカターレ富山にレンタル移籍。"武者修行"を経てFC東京に復帰すると、2016年のリオ五輪を経験してからチームの主軸に定着した。

 その後、レンタル移籍でポルティモネンセに新天地を求めると、そこでの活躍が認められて翌シーズンに完全移籍。
2018年に発足した森保ジャパンでは、主軸を担うまでに成長を遂げている。

 今夏にロシアのロストフに旅立った橋本拳人も、レンタル移籍経験者のひとりだ。

 FC東京の下部組織出身の橋本は2012年にトップチームに昇格した後、2013年5月にロアッソ熊本にレンタル移籍し、2014年シーズンまで修業を積んだ。2015年にFC東京に復帰してからも着々と成長を続け、2019年3月に日本代表デビュー。遅咲きながら、森保ジャパンの主力ボランチとして定着した。

 また、桐生第一高校時代から注目を浴びていた鈴木武蔵も、アルビレックス新潟入団後、水戸ホーリーホック松本山雅にレンタル移籍で経験を積んだ後、2018年にV・ファーレン長崎に完全移籍。さらにコンサドーレ札幌に完全移籍した2019年3月に森保ジャパンの一員として代表デビューを飾ると、今夏にベルギーのベールスホットVAに完全移籍を果たしている。

 Jリーグ初期の時代は、J1で出場機会を失った選手がJ2に貸し出されるケースが多く、どちらかと言えばレンタル移籍にはネガティブなイメージがつきまとった。

 しかし、レンタル移籍が急増している近年は、下部リーグで実戦経験を積んだあとに復帰した所属元クラブで活躍するケースが増加しているため、そのイメージも大きく変わっている。

 そういう意味でも、中島、橋本、鈴木らの成功例は、現在レンタル移籍で修業を積んでいる選手にとって、希望の光となっているはずだ。