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今年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2021年7月14日配信)。

※記事は配信日時当時の内容になります。

横浜高校野球部OBインタビュー 前編
松坂以上と言われた伝説の投手

 春夏計5度の甲子園優勝を誇る名門・横浜高校において、かつて「松坂大輔以上の逸材」と言われた選手がいた。将来を嘱望されながら17歳という若さで急逝した丹波慎也だ。

 かつて同校野球部を率いていた名将・渡辺元智が、過去のメディア取材で「50年の教え子の中で、とりわけ文武両道に長けていた選手」とも評した丹波とは、一体どんな選手だったのか。

 丹波が1年生の時の3年生で、多村仁志(元横浜、ソフトバンク)や斉藤宣之(元巨人、ヤクルト)らと共に甲子園に春夏連続出場(1994年)した山本哲也に、当時のことを振り返ってもらった。



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1996年の春のセンバツで、前年に急逝した丹波慎也の遺影を手に応援する横浜高野球部員 photo by Kyodo News

――丹波投手は、山本さんが3年生の時に1年生。どんな印象の選手でしたか?

山本哲也(以下:山本) 当時、1年生で背番号をもらっていたのが4人ぐらいいたのかな。そのうちのひとりが丹波でした。のちに中日に入団した幕田(賢治)や、僕らが引退したあとにキャプテンになった池浦(聡)、現在は西武で打撃コーチを務めている阿部(真宏)もそうでした。いい選手が多かったので、その世代も強くなるんじゃないかと言われていましたが、その中でも丹波はずば抜けていましたね。

――入部する前から丹波投手の噂は聞いていましたか?

山本 「中本牧リトルシニア」(横浜市中区)という中学硬式野球チームで活躍をしていて、シニアのオールジャパンにも入っていたのかな。
「ピッチングだけじゃなくてバッティングもいい、すごい選手がいる」と聞いていました。当時、僕らの代のエースには矢野(英司)、ひとつ下の学年に横山(道哉)と、のちに横浜に入団する2人がいたのですが、丹波はそれ以上と言われていましたね。

――シートバッティングなどで丹波投手と対戦する機会もあったと思いますが、実際に球を見た時の印象は?

山本 球の質が全然違って、「他の投手とは違うな」と。背が高かった(183cm)こともあって、球が2階からくるみたいな感じでした。どうにもこうにも打てなくて、キャッチャーに「球種を教えろ」と言っていたぐらいです(笑)。球速も、おそらく140km以上は出ていたと思います。



 直球のほか、縦に落ちる速いスライダーや、どろんとした大きなカーブも持っていましたが、とにかく当たらないんですよ。よく投げていた変化球は2種類だと思いますけど、それで十分に通用していましたね。

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現在は某印刷会社に務める山本氏 photo by Hamada Tetsuo

――特にすごかった球種は何ですか?

山本 縦のスライダーです。身長から角度をつけて投げてくるし、途中で消えて見えないんですよ。ボードゲームの野球盤で、ホームベースのところがパカッと開いて球が下に落ちる仕掛けがあると思うんですけど、まさにそんな感じでした(笑)。

――丹波投手が登板した試合で、今でも覚えているシーンはありますか?

山本 神奈川県の予選の準決勝で、相手は横浜商工だったかな。
当時1年生だった丹波が横浜スタジアムで投げたんですが、すごくいいピッチングをしたんですよ。僕はその試合に出てなくてベンチから見ていたんですけど、1年生には見えませんでした。堂々としているし、落ち着いているし、「やっぱり度胸があるんだな」と感心しきりでした。僕や同学年のメンバーが1年生の時とは比較にならないほどです。

――ダルビッシュ有投手、大谷翔平選手、藤浪晋太郎投手、佐々木朗希投手など、今では多くの長身の投手が活躍していますが、イメージとして近い投手を挙げるとすれば誰になりますか?

山本 それらの選手に比べると丹波のほうが少し低いですけど、大谷選手に近いんじゃないかな。ピッチングだけでなくバッティングもよくて、常に落ち着いていました。

僕たちが卒業したあとのことですが、亡くなる少し前の練習試合では、ノーヒットノーランを2回達成したり、何本もホームランを打ったりしていたみたいですし。

 これは後から聞いた話なんですけど、走ることも含めて、めちゃくちゃ練習していたらしいです。誰よりも一番練習していたと。そういうところを周囲の人間がちゃんと見ていたんでしょうね。

 寮の外でバットを振っていたのか、シャドーピッチングをしていたのかはわかりませんが、それだけ野球が好きだったんでしょう。僕なんかは練習だけで疲れ切って、ぐーすか寝てましたよ(笑)。



――体格はどうでしたか?

山本 直前まで中学生だったとは思えないほど、出来上がってました。ただ、僕らが知っている丹波は1年生でしたから、あくまで「1年生にしては」という範囲ではありますけど。今の大谷選手じゃないですけど、筋トレなどをしていったら、もっとすごい体になっていたでしょうね。才能も飛び抜けていたので、仮に高卒でプロに行っても十分にやれたと思いますね。

――渡辺元監督は、かつてテレビ番組(TBSテレビで2018年11月18日に放送された『消えた天才』)の中で、丹波投手のことを「ほとんど非の打ち所がない、あまりにも完璧すぎちゃって」「同じ年代であれだけ慕われて、認められた選手はいない」と絶賛されていました。

山本 丹波は野球だけじゃなくて、成績が優秀で頭も良かったと聞いています。実際に接していて感じたのは、統率力があるというか、コミュニケーションの取り方も大人でしたし、落ち着いていてどっしりと構えていました。ガッツポーズなどで感情を表に出すことはないけど、内に秘めた熱さがある感じでしたね。選手や指導者の人たちにも信頼されていたと思いますし、3年生になったらキャプテンになるような存在だったと思います。

――将来を嘱望されていた丹波投手は、2年生時の夏(1995年8月17日)に17歳という若さで突然亡くなりました。山本さんは横浜高校を卒業されていましたが、その訃報を聞いた時の状況は?

山本 その時は、九州に帰省していたんです。高校の時は全然帰ることができなかったんですが、大学に入ってから時間が取れて、甲子園に応援にきてくれた親戚たちと会っていました。そんな中、同級生から「丹波が急性心不全で亡くなった」と連絡が来て、「まさか」と......本当にびっくりしました。前の日まで練習していたのに、翌朝に亡くなっていたそうです。

 すぐあとには、センバツ出場をかけた関東大会が控えていたんです。チームは丹波がいなくなってしまって練習どころではない、という話になっていたことも聞きました。それでも、後にヤクルトに入団した松井光介がセンターからコンバートされてエースの座を引き継ぎ、翌年(1996年)は甲子園に春夏連続で出場しました。卒業後も後輩たちのことは常に気にかけていましたが、彼らの戦いぶりには心を打たれるものがありました。

 さっき話に出た番組で見たんですけど、4歳上のお兄さん(丹波幹雄)も横浜高校で野球をやられていて、のちにヤクルトに入団しているんですよね。肘を痛めて2年生の春頃に退部し、野球から離れていたみたいですが、弟の遺志を継ぐ形で社会人野球のクラブチームで野球を再開して、数年後にヤクルトにドラフトで指名された。丹波が、ご家族や仲間からいかに愛されていたかが伝わってきますよね。

――渡辺元監督は、丹波投手が生きていたら、「横浜高校で監督をしていたかもしれないし、あるいはプロで頑張っていたかも」とも話されていました。

山本 3年生だった僕らが丹波と一緒にいたのは、4月から7月までの約4カ月。短い時間だったので、あまりコミュニケーションを取る機会もなかったですが、存在感は大きかったですし、人間としての"誠実さ"も印象的でした。丹波が生きていたらどうなっていたか......本当に見たかったですね。

(後編:小倉コーチの猛練習と横浜高校あるある)