小笠原道大インタビュー(前編)

 小笠原道大氏はプロでは「バントをしない2番打者」として脚光を浴び、首位打者、本塁打王、打点王のタイトルを獲得するなど、球界屈指の強打者として君臨した。高校時代0本塁打だった小笠原氏はどのようにして超一流へとのし上がっていったのか。

高校時代ホームラン0本の小笠原道大が「フルスイング」を武器に...の画像はこちら >>

【高校時代は本塁打0本】

── 高校時代(暁星国際高)は本塁打0本。小笠原さんが現実のものとしてプロを意識したのはいつですか?

小笠原 プロ野球選手になりたいという「夢」や「憧れ」は、野球を始めた小学生の頃から抱いていました。現実的には、高校を卒業して、社会人4年目の時「指名されるかもしれない」という評価をいただきました。結局、その年は指名されなかったのですが、「来年こそ絶対にプロに行くぞ!」と、明確にプロを意識しました。社会人5年目で日本ハムに指名され、プロでのルーキーシーズンは24歳。ラストチャンスの覚悟でした。

── NTT関東(現・NTT東日本)から新日鐵君津(現・日本製鉄かずさマジック)の補強選手として都市対抗野球でアピール。

そしてプロ入りを果たしました。

小笠原 私がいた頃の社会人野球は、腕力だけでホームランになる金属バットの時代でした。その弊害か、プロ1年目の春季キャンプで手打ちのクセが抜けず、打球が内野の芝生を越えませんでした。社会人出のドラフト3位、背番号も1ケタ(2番)......周囲の期待のなか、焦りはありました。

── 当時コーチだった加藤英司さんの指導が大きかったと聞きました。

小笠原 加藤コーチは2週間好きなように打たせてくれたあと、アドバイスをしてくれました。

「しっかりとコンパクトにバットを振り切りなさい。ミート時に球を押し込みなさい」と。それからバットの先であっても根元であっても、スイングを緩めないでフィニッシュまで振り切るように練習しました。

── それが小笠原さんの代名詞となる「フルスイング」、バットをゆったり大きく構える「神主打法」の始まりなのですね。

小笠原 いえ、神主打法については、徐々にああいう形になっていきました。ただ、1998年まで2年間一緒にプレーした落合(博満)さんの打撃フォームの影響も多少あったかもしれません。

大きく構えるようになったのは、2000年ぐらいからです。

── 三冠王3度の落合さんの打撃を間近に見て、あらためて落合さんのすごさは何だと思いましたか。

小笠原 私も結果的に首位打者、本塁打王、打点王のタイトルを獲らせていただきましたが、自分が踏み入れていない領域なので、落合さんのことを語るのはおこがましいです。あえて言わせていただければ、まず自己分析力があって、打席での状況判断力、選球眼、ミート力、長打力......と、すべてがすごい。だから残した数字が図抜けています。

【バントをしない強打の2番打者】

── プロ3年目の1999年、レギュラー奪取のきっかけは?

小笠原 落合さんが1998年を最後に引退しました。私は捕手と一塁を守っていたのですが、当時守備コーチだった古屋(英夫)さんが「一塁だけでやらせてやってくれないか」と上田(利治)監督に頼んでくれたんです。

1999年のオープン戦で全試合フルイニング出場して、打撃成績も上位で、開幕スタメンを勝ちとることができました。

── 4月7日には松坂大輔投手のプロ初登板試合で、本塁打を放ちました。

小笠原 当時の自分は、結果を求めて前に向かって突き進んでいた時期でした。松坂投手がのちに大投手へと成長したから、あの本塁打がクローズアップされたわけで、あの一打がレギュラー獲得のきっかけになったわけでもないですし、私のなかでは対戦した投手のひとりという印象しかありません。

── そのシーズン、135試合に出場して、156安打、打率.285、25本塁打、83打点。「バントをしない2番打者のパイオニア的存在」として脚光を浴びました。

小笠原 僕が初めてということではなく、上田監督は「強打の2番打者」ということをもっと前にやられていました。上田さんが阪急(現・オリックス)の監督としてリーグ4連覇を果たした1978年、福本豊さんのあとを打つ2番に簑田浩二さんがいました。蓑田さんは83年に"トリプルスリー(3割、30本塁打、30盗塁)"をマークした強打者です。それ以前にも西鉄(現・西武)の豊田泰光さんが首位打者を獲った1956年に2番を打っていました。

── その時代のトレンドがあるということですね。

小笠原 そうですね。

川相昌弘さんの"バントで送る2番打者"の時代もありました。僕の場合は左打者だったので、一塁走者がいれば一、二塁間が大きく空いてヒットゾーンが広がり、ライト前に運べば一、三塁のチャンスをつくることができる。それに当時は、足もそれなりにあったのでダブルプレーも少ない。そういうことを含め、上田監督が"強打の2番"というカードを切ってくれたのかなと思います。

【体勢を崩されてもベストのスイング】

── 2000年から2年連続最多安打、2002年から2年連続首位打者。結果的に「打率3割、30本塁打、80打点」9度は、王貞治さんの13度に次ぐ史上2位の記録です。

小笠原 それは知りませんでした。ただ、その頃は3番打者になって「打率3割、30本塁打、90打点」を残すことを目指していました。

── 小笠原さんは「配球を読んで打つタイプ」「来た球に反応して打つタイプ」のどちらですか?

小笠原 後者です。ただ、配球を読むまではいかないけど、経験値に基づいて"予測"はします。基本ストレートを待っていて、2ストライクまで空振りしてもいいという気持ちでいました。

── どういうことを考えて打撃練習に取り組んでいたのですか。

小笠原 投手は打者の体勢を崩そうとして投げてくるものです。だから、体勢を崩されてもバットの芯で当てられるように打撃練習をしていました。崩された体勢でのベストに近いスイングを体にインプットさせておけばいいのです。

── それが小笠原流「打撃の極意」なのですね。プロ10年目の2006年にはシーズンMVPを受賞し、日本一にも輝きました。

小笠原 私は2003年から選手会長を拝命しました。応援してくれるファンのみなさんのあと押しもあって、北海道移転3年目に1981年以来25年ぶりのリーグ優勝、そして日本一。私自身も達成感があり、日本ハムで10年プレーして、ひと区切りで新しいステージへというタイミングで巨人からオファーをいただいたのです。

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小笠原道大(おがさはら・みちひろ)/1973年10月25日、千葉県生まれ。暁星国際高からNTT関東を経て、1996年のドラフトで日本ハムから3位で指名され入団。99年に「バントをしない2番打者」としてレギュラーに定着。2002、03年には2年連続して首位打者に輝いた。06年には本塁打王、打点王の二冠に輝き、MVPを獲得。チームも日本一を達成した。同年オフにFAで巨人に移籍。巨人1年目の07年に打率.313、31本塁打、88打点の活躍で優勝に貢献。史上初めてリーグをまたいでの2年連続MVPに輝いた。13年オフに中日に移籍し、おもに代打として活躍。15年に現役を引退した。引退後は中日二軍監督、日本ハムのヘッド兼打撃コーチ、巨人二軍コーチ、三軍コーチを歴任。23年オフに巨人を退任し、現在は解説者として活躍中