昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第10回)
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1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。

ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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江藤慎一は前代未聞の悪条件のなか史上初めてセ・パ両リーグの首...の画像はこちら >>

1971年、江藤慎一はプロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得した

 1970年のシーズン半ばでロッテに入団した江藤は、この年のリーグ優勝に貢献すると、翌年の1971年には、大きな野心に燃えた。半年近い無所属の状態から、コンディションを戻して、立ち向かったそれはすなわち、セ・パ両リーグでの首位打者獲得であった。

 春季のアリゾナキャンプから、隣のロッカーでつぶさに江藤のふるまいを見ていた3年目の有藤通世は、「今年は(タイトルを)獲りにいっているな」と感じていた。

 当時、ロッテのショートに広瀬宰という大分出身の有藤とドラフト同期の選手がいた。江藤と同じ九州ということで、可愛がられており、この広瀬を介して有藤は江藤との酒席をともにすることが増え、距離も近くなっていた。

「出された中日に対する意地。親友の張本(勲)さんにも勝つという思惑が見受けられましたからね。ロッカーでの過ごし方もすごく集中していて目つきも変わっていきました」

 移籍の恩人とも言える永田雅一オーナーは、リーグ優勝の悲願を遂げた数か月後、大映の倒産によって球界を去っていった。前年までロッテはあくまでも企業名を出す、いわばネーミングライツスポンサーの立場であったが、これで大映に代わって実質的な経営母体となった。

 一時は野球を辞める決心をしていた江藤が野心を持った理由は、せめて自分がタイトルを獲ることで、永田への恩に報おうという気持ち、そしてもうひとつは、自身の生活の立て直しのためであった。江藤は移籍の年に、副業で経営していた江藤自動車株式会社と不動産業の南畿産業株式会社のふたつの会社を倒産させていた。

 江藤自動車は、独立を志していた自動車会社勤務の親族のために昭和41年に資本金1千万円で設立し、実質的な経営をこの親族にゆだねていた。トヨタからの受注も請け負うことができ、順調に業績も伸びていた。ゆくゆくはプロ野球を中途で辞めた選手たちのセカンドキャリアの受け皿にもしようという考えがあった。何より張本の言う「夢見る慎ちゃん」の地元名古屋では、「中日の江藤」という無形の信頼もあった。

 問題は土地の投資を持ちかけられて会社ごと買いとった不動産会社、南畿産業のほうであった。知人から、伊勢・志摩の眠った5万坪の土地が破格の安値で手に入ると言われて着手したのが、過ちであった。手を出した土地はいわゆる虫食いで転売のきかない沼地であったことが、あとから判明した。三重県鳥羽市の山林の評価額を巡ってトラブルとなり、江藤は手形の決済に追われまくった。

 会社の更生はままならず、自らの貯金を切り崩していったが、結局、それも底をついた。江藤自動車の裏書で決済をしていったが、これも焼け石に水であった。

親族は、手形を落として、江藤の信頼に傷をつけてはならないと焦り、知らない間に実印を持ち出していわゆるトイチのマチ金にまで手を出してしまっていた。あとは坂道を転げ落ちるだけであった。

 南畿産業は、昭和45年7月に570万円の不渡手形を出して、倒産した。同社には、江藤自動車も2~3千万円の融資をしており、結果、経営に行き詰まって連鎖倒産となった。江藤は、全私財をなげうって30人もの従業員に詫びた。

 裁判所の審理に入ると、有象無象の債権者が押しかけて来た。

なかには実体のないブローカーもいた。彼らは名古屋地方裁判所に破産宣告申請を出し、取り下げる交換条件として示談やローンの提示をしてきた。いわば脅迫であった。自宅へのおどしの電話も頻繁にかかってきた。

 江藤はNPBに破産宣告を受けても野球には支障がないことを確認すると、徹底して抗戦することを決意した。自らも裁判知識を持つ必要を考え、破産法、民事訴訟法、刑事訴訟法についての猛勉強を始めた。

不明な点は赤線を引き、翌朝、弁護士に問い合わせて確認していった。

 ロッテ2年目のシーズンが開幕してもこの裁判は続いていった。夜半の2時、3時まで六法全書を開き、朝は7時には起床して弁護士事務所に行って代理人を待ち、打ち合わせと疑問点の解決。それが終わると、球場に行って特打を繰り返し、ナイターに出場する。そしてゲームが終わると、待ち受けている債権者たちに対応し、課題を持ち帰って、再び机に向かう。ときには東京から名古屋地裁に向かうこともあった。

 驚くべきことに江藤はこれらのルーティンを、昭和46年の初頭から翌47年3月までの約1年間続け、その上で、パ・リーグの首位打者を獲得したのである。「司法試験の勉強をしながら、野球でもてっぺんを獲ったようなものだった」と当時の担当弁護士は讃えたが、史上初のセ・パ両リーグの首位打者獲得は、野球に集中するどころか、日常的に神経をすり減らす債権者との会議、そして判例を自ら調べながら裁判に臨むという前代未聞の悪条件のなかで実現されたのである。

 昭和46年、連覇を狙ったロッテは、阪急とのデッドヒートを展開していた。有藤には忘れられない試合がある。7月23日に西宮球場で行なわれた阪急対ロッテ10回戦である。「首位争いで2万人が入っていました。当時のパ・リーグではすごい数のお客さんが入って、阪急が足立(光弘)さん、ロッテが成田(文男)の先発で始まった試合ですよ。スコアも覚えています。1対4でうちが負けていて7回の先頭バッターが江藤さんだったんです。2ストライク、1ボールのあとの4球目でした」

 江藤のハーフスイングを、一度はボールと判定した主審の砂川恵玄が、捕手の岡村浩二の主張によって空振りと判定し直したのである。江藤とロッテ側は「断固として振っていない」と抗議を続けた。

「江藤さんは見送るときに右肩が出ない。この時もそうだったから、自信があったんでしょうね。『絶対に俺は振っていない』と言って、引き下がらなかったんですよ」

江藤慎一は前代未聞の悪条件のなか史上初めてセ・パ両リーグの首位打者を獲得。試合後は深夜まで六法全書を広げる日々だった

主審のジャッジに抗議する江藤慎一(右から2番目)

 この時、ロッテ側の最高責任者として球場に来ていたのが、永田雅一からオーナーを引き継いだ中村長芳であった。旧制山口中学出身の中村は同郷の岸信介の総理大臣秘書官を務めていた人物で、2年前からロッテ球団の副社長に就いていた。

 なぜ、政界の中枢にいた人物が球界、それもロッテにきていたのか? そこには、日米間の貿易摩擦が起因していた。1968年、日米間の通商会議で日本は、米国からチューインガムの自由化を突きつけられていた。日本市場を狙っていたのは、シカゴカブスのオーナー企業でもある世界最大のガムメーカー、ウィリアムリグレージュニアカンパニーで、ロッテにとっては、大きな脅威であった。

 ロッテグループの創業者である重光武雄は、元総理である岸に国内企業の保護のために自由化の動きを鈍らせられないか、働きかけた。中村は、そこで岸の意向を帯びて、関係省庁を往還し、このリグレーの上陸を2年遅らせることに成功させた人物であった。これでロッテとの大きな縁ができていた。

 江藤に対する判定に納得しない濃人渉監督は、選手を引き上げさせた。「このまま再開に応じなければ、試合放棄と見なす」という審判団の再開要請に30分経っても応じなかった。

 プロ野球に精通している球団経営者ならば、試合放棄にどれだけ大きなリスクがあるか、熟知しており、現場指揮官を説得する。しかし、剛腕の元官吏からすれば、納得できなければ徹底的に抗戦すればよいという考えがある。「それなら止めてしまえ!」とむしろ後押しを告げて、その結果、ついにロッテは放棄試合を宣告され、0対9で敗戦を宣告された。

 比較的おとなしいと言われていた阪急ファンもこのロッテの態度には、怒りを抑えきれず、グラウンドになだれ込んで来た。「我々も宿舎に戻ろうとするのですが、バスは壊されるわ、バットは取られるわ、散々な目に遭いましたよ」(有藤)

 さらには、2万人を収容した試合のボイコットということで、約1千万円の違約金を請求された。以降、日本のプロ野球界において放棄試合は起きていない。

 優勝争い、騒然とした放棄試合、さらに江藤はこの4日後に同じ西宮球場で行われたオールスターにオールパシフィックの四番として出場し、江夏豊による9者連続三振のひとりとしても名前を刻んでいる。倒産した会社の債務処理をしながら、グラウンドでもことほど左様にプレッシャーのかかるなかでの首位打者であった。打率.337で2位の加藤秀司(阪急)が.321なので1分以上の差をつける堂々たる受賞であった。

 しかし、球団は偉業を成し遂げたこの外様に冷淡だった。 

 10月6日の公式戦最終日。この日は江藤の34歳の誕生日でもあった。朝10時に電話が鳴った。出ると球団幹部であった。「来季から大洋ホエールズでプレーしてほしい」と告げられた。野村収投手とのトレードがすでに決まっていた。

 首位打者を獲得しながらのトレードであったが、すでに球団を変わることには、大きな抵抗はなかった。大洋の中部謙吉オーナーに請われて行くということで気持ちが前向きになっていた。

 有藤は2年しか同じチームではなかったが、公私ともに大きな影響を受けた江藤についてこう回顧する。

「バッティングもそうでしたが、飲むとギターの弾き語りをする野球選手に初めて会ったので、たまげましたね。そういう息抜きの仕方も学びました。大阪遠征のときは、朝からビールをどんぶりについで食後にお茶代わりに飲んでおられました。僕は江藤さんの移籍2年目にちょっと気になることがあったんです」

 それは背番号であった。有藤は入団以来、親しんだ8番をもしかすると、この9歳年上の大打者に譲らなくてはならないかもしれないという危惧があった。江藤はロッテ移籍1年目には12番をつけていたが、中日時代はエイトマンとファンに呼ばれていたほどである。末広がりのナンバーに愛着を持っていたのは、間違いない。譲渡を頼まれれば、球団も自分もNOとは言えない。しかし、江藤は何も言ってこなかった。新人王を獲った生え抜きの若い才能に、そのまま8番とともに成長をしてほしいと願っていたのか、その配慮に有藤は今も感謝している。

(つづく)