昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第11回)
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1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。

ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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江藤慎一は犠牲フライの監督指示を無視。見逃し三振で堂々とベン...の画像はこちら >>

大洋時代の江藤慎一

 流転の人生は続いた。1972年、江藤はロッテから大洋に移籍し、3年ぶりにセ・リーグに戻った。首位打者を獲った人物が翌年に放出されるのは異例なことだった。
年齢は34歳に達していた。

 当時、大洋の二軍投手コーチをしていた稲川誠は、江藤とは中日時代からの親交があった。

「あの頃、長田幸雄っていうポパイってあだ名のスラッガーが大洋にいてね。彼が(中日の)葛城(隆雄)と仲がよかったんだよ。その縁で僕も名古屋の慎ちゃんの家に招かれたことがあった。今でこそ、他球団同士の選手でも一緒に自主トレをやったりしているけど、当時は面識のない同一リーグの選手を自宅に呼ぶなんてありえないことでしたけどね。

そういうあけっぴろげさが慎ちゃんにはあったかな」

 例によって豪快な宴会になったという。稲川と江藤を取り持つ縁はもうひとつあった。1962年に中日から大洋に移籍してきた森徹である。

 稲川は旧満州国の新京(現在の長春)で生まれ、北京で育った。8歳のときに中国大陸から日本に引き揚げてきたが、満州育ちの森とは北京幼稚園の同窓であった。(ちなみに森の母親は万里という名前の料亭を北京で経営しており、そこに大相撲巡業で来た力士時代の力道山と出逢い、その交流は力道山の生涯続いた)

 稲川と森は引揚者としての苦労を乗り越え、稲川は進学校である福岡県立修猷館高校から立教大学、富士製鉄室蘭、森は早稲田学院から、早大、中日というそれぞれのキャリアを経て大洋ホエールズで再会を果たしたのである。

「森さんとは、よく中国や引き揚げの話を思い出してはしましたよ。僕は今だって、子どもたちが親に手を引かれて逃れていくウクライナからの難民映像を見るとたまらない気持ちになりますね。私は北京では東城第三小学校という比較的裕福な日本人子弟が通う学校に行っていました。これはイギリスの建物だったものを接収した学校だったので、冬もスチームが効いていて快適な学校でした。北京の学習院と呼ばれていて、同級生には、ラストエンペラー、愛新覚羅溥儀の地縁の子がいてよく一緒に遊んでいました。彼は人力車で登校していたんですが、要はそういう学校だったんです」

 それが、1945年8月15日を境に反転する。

父親に雑音だらけのラジオで玉音放送を正座をして聞かされた稲川は、しばらくして上空を米軍機が覆ったのを今も記憶している。

 やがて同じ地域に居住していた日本人たちは天津の収容所に送られた。今でこそ、北京~天津は高速鉄道で35分で結ばれているが、当時は120キロの距離を着の身着のままで、歩いて移動せねばならなかった。疲れ果てた母親は途中、何度か稲川をこの大地に置いて行こうかと考えていたと、帰国後、その心情を本人に吐露したという。収容所で過ごした後、米国船籍のLST号に乗って、稲川の家族は佐世保港に辿り着いた。戦争の記憶はまだ生々しく残っていた。

「森さんと慎ちゃんとの交流は続いていたし、だから中日にいた頃から何かと縁があったし、実際に対戦もしましたからね。自信を持っていたカーブやスライダーをうまく引っ張られたという印象があるね。投手としての僕は、バッターは構えが一番大事だと思っているけれど、それが最も決まっていたのが、飯田徳治さん。次が豊田泰光さんと慎ちゃんだったかな」

 修猷館高校時代は野球部の他にも山岳部と生物部に所属し、現在も日本屈指の蝶の収集の専門家としての顔も持つ稲川は、細部まで違いにこだわるその秀でた観察力で江藤のことをこう見ていた。

「完成されたフォームは固まっていた。それでも毎年、細かい微調整をしてシーズンに入ってきた。

年によって変えるわけだから、あれは相当な努力をしていますね。右と左の違いはあるけど、ベイスターズの寮長の頃に見た筒香(嘉智)にも似た雰囲気を感じます。ただロッテを経て、大洋でチームメイトになったときは、もう少しずつだけれど、現役としては下り坂にきていたかな」

 大洋時代の江藤は、松原誠、J・シピンとクリーンナップを組み、王貞治野村克也を抜いて通算満塁ホームランの日本記録(12本)を樹立しながら、持病になっていた右太ももの肉離れが再発した。ケガによる欠場も少なくなかった。

 一方で稲川にとっては忘れられない試合がある。江藤が大洋に来て3年目の1974年のゲームだった。この年は山下大輔のルーキーイヤーで指揮官は宮崎剛だった。

 開幕してから不振で、6週間ノーヒットが続いていた。ようやくヒットが出ても、続かない。ついには、0割9分3厘という数字が電光掲示板に並んだ。スランプの最中、ワンアウト、ランナーが三塁にいる局面でバッターは江藤。気合を入れて打席に向かおうとするところを監督が呼び止めた。「ライトフライでいいから、気楽に行け」途端に江藤の顔が変わった。

「不調だから、リラックスさせようと監督は犠牲フライでOKだと伝えたんですが、そうしたら、一度もバットを振らないんですよ。見逃しの三振を堂々としてベンチに戻って来ました」

 プライドを傷つけられたことに対する抗議だった。しかし、反骨心に火が点き、ここから急激に江藤は打ち出した。ボールの見極めやグリップの位置、スタンスの幅、入念に行なっていたこれらのチェックをやめて、ただ投手に向かっていく気持ちを全面に出した。無心で来た球を打ち、気がつけば、夏には3割4分1厘まで打率を上げたのである。

 稲川は中日を放出されて以降、結果を出しながらも転々と移籍を繰り返す江藤をこう見ていた。

「とにかく慎ちゃんは豪傑で繊細。弱い者の味方だった。後輩や裏方さんは庇うけど、納得しないと偉い人にも忖度しなかった。だから上の人には誤解を生んだかもしれないな」

 10月12日、中日球場(当時)中日対大洋のダブルヘッダー。中日は江藤が移籍してから4年、ここで2連勝すれば巨人の10連覇を阻止し、20年ぶりのリーグ優勝が決まるという試合を迎えていた。

 圧倒的にホームの中日が有利とはいえ、選手たちは前日に神宮球場でヤクルトとのナイトゲームを行なっており、移動日なしのデーゲームを含めてのダブルである。当然、緊張もある。ここで一試合でも負け、もしくは引き分ければ、優勝決定は後楽園での巨人戦の結果に持ち越される。そこまでいけば、経験のなさからも圧倒的に不利であることはわかっていた。

 必ず、この2試合で連勝しなければならない。一塁側ベンチにいる青いユニフォームの選手たちは、この時、大きなプレッシャーを実は感じていたことを、井手峻(現東京大学野球部監督)は証言している。

「疲労困憊していましたし、かなり硬くなっていましたね。もしも先制点をとられたら、流れは変わっていたでしょう」

 そこに江藤が三塁側からふらりとやって来た。高木守道がいた。星野仙一がいた。大島康徳がいた。木俣達彦がいた。そして弟の省三がいた。かつての後輩たちに向かって言った。

「お前ら、今日は大丈夫だから。頑張れよ。今日は大丈夫だからな。任しとけ」

 かつてのチームリーダーの言葉に緊張が一気にほぐれた。

「江藤さんに大丈夫と言われたことで、自信が湧いてきたんですね。私もこれで優勝できると思いました」(井手)

 試合は2連勝で中日は20年ぶりのリーグ優勝を決めた。

 一方、江藤は2割9分1厘、ホームラン16本の記録を残しながら、またしてもチームを追われることとなった。稲川は、シーズン終了後に投手交代についての質問をさかんに江藤がしてくることに驚いていた。

「バッターなのに何でピッチャーのことを聞きたがるんだろう? 投手心理の勉強なんだろうか」

 訝しがっているとチームが江藤のリリースを発表した。太平洋クラブライオンズに監督兼任、プレーイングマネージャーとしての移籍が決まったのである。新任の秋山登監督から、ケガを持った起用のしづらいベテランという評価を受けたためと言われている。

(つづく)