藤波辰爾が語る武藤敬司(3)

日米でトップヒールになったグレート・ムタ

(連載2:若き武藤敬司が前田日明に「あんたらのプロレスつまらない」→旅館破壊の大乱闘。UWFに反抗した理由>>)

 2月21日に東京ドームで引退する武藤敬司は、1984年10月5日のデビューからの38年4カ月で新日本、全日本プロレス、WRESTLE-1、プロレスリング・ノアを渡り歩いた。

さらに、化身のグレート・ムタとして米国でヒールを極め、「武藤」と「ムタ」ともに頂点に君臨した。

 そんな武藤のレスラー像と素顔を藤波辰爾が証言する短期連載。第3回目は武藤の化身「グレート・ムタ」との戦い、アントニオ猪木を相手にもまったく"合わせなかった"理由などを藤波が明かした。

グレート・ムタは引退発表後のアントニオ猪木にも忖度なし。伝説...の画像はこちら >>

1994年5月1日の福岡ドームで、猪木を攻めるムタ

***

 武藤のプロレス人生で大きな転換点のひとつになったのは、「グレート・ムタ」の誕生だろう。

 武藤は1988年1月に2度目の海外遠征へ。1989年4月、米プロレス団体「WCW」のリングに武藤の化身「ムタ」が出現した。
顔面にペイントを施して毒霧を噴射するヒールとして、当時の王者だったリック・フレアー、スティングらWCWトップ選手との抗争を展開。全米でトップヒールを極めると、1990年9月には日本に降臨し、「武藤敬司」とは真逆の凶器を振り回す"極悪非道"なスタイルでファンの心をわし掴みにした。

 世界のプロレス史でも、ひとりのレスラーが「善玉」と「悪役」のキャラクターを使い分けた例はほとんどない。日米のリングでムタがトップを取ったことは、武藤の才能がいかにずば抜けているかを象徴している。藤波はムタの存在についてこう話す。

「猪木さんが徹底してストロングスタイルを追求し、作り上げた新日本プロレスの中でムタという存在は異例でした。
ああいうアメリカンプロレスの象徴みたいなレスラーは、それまで新日本では受け入れられなかったんです。

 だけどムタは違った。新日本の歴史はもちろん、日本のプロレス界の歴史でもふたつのキャラクターを持った選手はいませんでした。それができたのは、彼の生まれ持ったプロレスセンス、器用さの賜物だと思います」

【ステップから違った武藤とムタ】

「武藤敬司」と「グレート・ムタ」、まったく正反対のキャラクターを作り上げた背景については次のように分析する。

「おそらく彼は、明確にふたつのキャラを切り替えたり、使い分けたりしていなかったと思います。彼はいつも自然体で、ナチュラルにそれをやっていた。だからこそ恐ろしい存在でしたし、新日本にとって大きな存在になったんだと思います」

 ムタは新日本マットに降臨後、東京ドームなどビッグマッチ限定で登場した。

それはまるで、昭和の時代に特別参戦していたNWA世界王者のようだった。

 そんな破格の存在となったムタと藤波が初めて対峙したのは、1991年9月23日の横浜アリーナでのことだった。試合は入場から豪華演出が駆使され、二代目・引田天功のイリュージョンで両者がリングに現れた。

 ゴングが鳴ると、藤波は顔面を真っ赤にペイントしたムタに対してドラゴンロケットを放つなど、真っ向から仕掛けた。対するムタは、場外の鉄柱攻撃で藤波を流血に追い込む。試合終盤、ムタが緑の毒霧をレフェリーの顔面に噴射し、リング上は無法状態に。
そこでムタが藤波の頭部をビール瓶で殴打すると、最後はムーンサルトプレスを見舞って勝利した。

 極悪ファイトに翻弄されて敗れた初対決を、藤波はこう振り返った。

「初めてムタという選手と向かい合って、武藤敬司とはまったく違うレスラーと対戦している感覚になりました。まず、ステップが違うんです。武藤の時のステップはつま先に重心をかけるような感じなんですが、ムタはすり足。相手がステップを変えると、こっちも身構えるものです。
普通のレスラーは、簡単にステップを変えられません。それをスムーズにできてしまうところが、彼の"天性"ですね」

 藤波を倒して以降、ムタの存在はますます大きくなっていった。1年後の1992年8月16日に福岡国際センターで長州力を破り、新日本の最高峰であるIWGPヘビー級の王座を奪取したのだ。ムタが武藤より先にIWGPのベルトを巻いたことを、藤波は「それだけ、当時の新日本がムタを特別な存在と認めていたということです」と明かす。

【猪木相手にも「自分が一番」】

 そして1994年5月1日、福岡ドームでアントニオ猪木とムタが一騎打ちを行なった。この試合は、近い将来に引退することを表明した猪木の「ファイナルカウントダウン」第一弾として実現。

引退の花道の初戦に猪木がムタを指名したことに対して、「あの猪木さんも、ムタを認めたということ。猪木さんの目から見て、当時の新日本で一番注目されるレスラーがムタだと判断したんでしょう」と藤波は振り返った

 その 試合は、猪木がチョークスリーパーからの体固めで勝利。しかし内容は、ムタが猪木の動きに一切合わせず、試合後に猪木が激怒したという"いわくつき"の一戦となった。今となっては伝説となった「猪木vsムタ」について、藤波はこう検証する。

「武藤の性格上、『相手が猪木さんだからこうしなければいけない』といったことは考えていなかったはず。それは僕と対戦した時もそうでしたけど、彼は相手のことを考えず、常に自分が一番。僕は対戦相手によっていろいろ考えるんですが、武藤にはそれがない。だけど、そこに悪気はないんですよ。

 本人から聞いたことはないんですが、おそらく武藤には『自分より上のレスラーはいない』という自負があったんじゃないかと。しかもムタという別人格ができたことで、さらに自由にできた。だからこそ、猪木さんに何もさせないほどの、自分の世界を完成させられたんだと思います。そういう意味でも破格のレスラーですね」

 そして猪木戦の翌年、武藤自身が「ベストバウト」と明かす1995年10・9東京ドームの髙田延彦との一戦で、新たな伝説を作ることになる。

(連載4:武藤敬司が髙田延彦に繰り出したドラゴンスクリュー。それを見た藤波辰爾は「技の入り方が違う」>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。