連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第28回

 斎藤佑樹が大学3年になろうかという2009年の春、日本中がWBCの連覇に沸き返っていた。決勝の韓国戦、この大会で結果を出せずにいたイチローが勝ち越しの決勝タイムリーを放つ。

その時の日本代表に、同い年の田中将大が選ばれていた。

斎藤佑樹が追い求めた150キロと股関節痛「このケガがピッチャ...の画像はこちら >>

大学3年になって、斎藤佑樹はケガに悩まされることになる

【150キロを追い求めたワケ】

 大学1年の時、チームとしてこれ以上はないという結果が出て、大学2年はピッチャーとしての数字もよかった。いま思えば3年というのは微妙な時期だったと思います。あの時に「今の自分でいいんだよ」と思わなくちゃいけなかったんですよね。プロと大学とでは比較のしようがないじゃないですか。何をもってプロと比較したらいいのかは、経験しなければわかりません。経験できないことなのに今の枠で収まっちゃいけないと、思う必要はなかったと思います。

 実際、当時の東京六大学のレベルは高かったと思います。3、4番の選手とか、1番バッターとか、プロで活躍してもおかしくない選手は多かった。そういう選手たちをコンスタントに抑えられればそれでよかったし、圧倒的に抑えようとか、そんなふうに思う必要はなかったんです。

 もちろん、その頃もピッチャーとしてはマー君(田中将大)のほうが上だと思っていました。それでも、バッターに打たれないということを考えた時、僕がプロのマウンドに立っていない以上、そこは未知数だとも思っていました。変化球には自信がありましたし、もしかしたら僕のほうが打ちにくい球を投げている時もあるかもしれないと思ったこともあります。

 ただ、周りから比較されることが多かったので、自分なりに現在位置をわかりやすく示せる数字が欲しかったんでしょうね。それが"150キロ"でした。高校時代の最速が149キロで、150キロにあと1キロ足りないこの数字が僕にとってはずっと壁でした。

 夏の甲子園が終わってリセットしたあと、大学で新しい自分としてスタートした結果、スピード以外の部分ではすべて上回ることができたのに、150キロだけが出せない。あとはスピードだけだったんです150キロを1回でも出せば"150キロ超え"と言われるじゃないですか。それは相手を圧倒する材料になりますから、そのためにスピードを上げたいと思っていました。

149キロというのはただの数字だと捉えればよかったのに、そういうふうには考えられませんでした。

 150キロにこだわったのは、松坂大輔さんをずっと追いかけていたからなのかもしれません。ライオンズ時代の松坂さんは150キロの真っすぐをバンバン投げて、スライダーもチェンジアップも自由自在に操っていました。松坂さんは真っすぐがすごいのに、それに頼りすぎていない。変化球を生かすための真っすぐだし、それを生かすための変化球になっていました。全部のボールでカウントがとれて、全部のボールで三振がとれる。

僕も松坂さんのように、普段は穏和なのにボールから凄みを出せる、そんなピッチャーになりたいと思いました。とてつもなく速く感じるとか、目の前から消えるとか、そういう凄みを、僕の投げるすべてのボールからも出せるようになりたかったんです。

 力と力の勝負というのは、必ずしも真っすぐを投げることじゃない。力勝負は全力投球です。全部の球種でカウントがとれて、全部の球種で打ちとることができて、全部の球種で三振がとれる。すべてが勝負球で、カウント球。

それができれば万能になれると思いました。僕にとってはそれが松坂さんでした。変化球には自信があったので、あとは150キロの真っすぐがあればプロで活躍できると思いたかった......つまりは、安心材料が欲しかったんだろうと思います。

【野球人生を変えた股関節痛】

 でも、3年の時には150キロを出すことはできませんでした。3年の秋に149キロ(自己最速タイ、大学入学後では最速、立大1回戦)は出たんですが、じつは2年秋のシーズンが終わってから、僕は股関節を痛めてしまったんです。その原因が何だったのかはいまだにわかりません。

 大学2年の冬......2008年12月から1月にかけて、スピードを上げるためにそれまであまりやってこなかったウエイトトレーニングをかなりガッツリとやっていました。

股関節を痛めてからはガッツリをやめて緩やかなイメージのトレーニングに切り替えました。ベンチプレスとかフルスクワットをやめて、部位ごとに、三頭筋とかハムストリングのトレーニングに変えました。

 あの時、スピードを上げるために考えていたのは、まず質量を上げようということでした。同じ150キロ でも、80%の感覚で投げられるようにするには質量を増やして出力を上げなければダメです。100パーセントで投げて球を速くするんじゃなく、気持ちよく、スッと投げて150キロが出たらいいなと......そのために筋量を増やしたかった。フォームに関しては、右ヒザを折って投げるのをやめなさいとずっと言われ続けていました。

 位置エネルギーが使えないからということでしたが、夏の甲子園で勝ったフォームでしたし、これをやめたらどうなるんだろうという葛藤はありました。僕は当時、バランスという言葉をよく使っていたんですが、とにかく力を抜いて、指にボールがかかるようなフォームを目指していた記憶があります。そのためには、ヒザを折って投げたほうがバランスはいいんじゃないかと思っていました。

【器用貧乏が生んだ弊害】

 今、あらためて大学3年の時のフォームを連続写真で見ると、気づくことがあります。胸のマークで比較すると、高校時代よりも右腕が早く前へ出てきてしまっているんです。しかもその時期、左足をステップする場所が2、3足分、左へ開いてしまっていました。

 本来、まっすぐ踏み出していたはずなのに知らず知らずのうちに開いていたというのは、股関節が痛かったからなんです。まっすぐ踏み出すと痛むのに、開くと痛みが出ない。だから右腕も早く出てきてしまうんですが、そうなると胸の大きな筋肉を使えなくなります。踏み出した左足の股関節の真上に上体を乗せて回るのと、真上から逃がしたところで回るのとでは軸が違う。真上で回そうとすると股関節が痛くて腕が早く出てしまうから、肩から先だけでコントロールしようとしてしまいます。

 当時はまだ胸椎の使い方を考えるような時代ではありませんでしたが、今、こうしてその頃のフォームの連続写真を見ると、胸椎から連動させる投げ方はまったくできていません。だから外側が詰まる感じがして、窮屈な投げ方になっていたんです。

 あの時期に股関節を痛めたことで、その後のピッチングにかなりの悪影響を与えてしまったと思います。身体に違和感を覚えた状態で投げ続けたことが、おかしな癖になってしまって、それがやがては肩にも悪影響を及ぼしてしまった。

 僕には器用貧乏なところがあって、何でもやろうと決めるとそれなりにできるところまで進んでしまうんだけど、それが最善だったのかと言われると、そうとは限らない。股関節が痛くても、身体が開いても、リーグ戦で投げてバッターをアウトにとれてしまう。そうすると、それも引き出しのひとつだと考えるようになってしまいます。

 スピードを上げるにしても、今ならトレーニングも違うやり方をしたはずです。ただ、ああしていれば、こうしておけば、というのは過去への言い訳です。その時なりに精一杯考えて、選んだやり方については、悔いはありません。

 だから、大学でのケガがピッチャーとしての未来を変えてしまったとしても、それも僕の人生です。高校からプロへ行っていたら、野球に関してはレベルアップできていたかもしれませんが、高校からの周囲の期待をそのまま受けて、人間として成長できていたかわかりません。大学を選んだからには、高校からそのままプロへ入ったことでは得られない何かを得て、さらに野球もプロと同じくらいやらなければならないと思っていました。勉強と両立しながら野球でもっと上にいかなくちゃいけないという考え方が自分にプレッシャーをかけて、焦りを生んでいたのかな......あの時、股関節を痛めたのは、それも理由のひとつだったと思います。

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 斎藤が大学を選んだのは、将来的に潰しが利くとか、ほかの道を視野に入れていたからではない。一生、野球で食っていく覚悟を決めていたのに、それでも彼は大学へ進んだのだ。だからこそ、大学野球の世界でプロを意識することの難しさを、3年生になった斎藤は痛感していた。

(次回へ続く)