篠塚和典が語る「年代別の巨人ベストナイン」(1)1980年代
卓越したバットコントロールと華麗なセカンドの守備で、長らく巨人の主力として活躍した篠塚和典氏。引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任するなど、長きに渡って巨人の歴史と共に歩んできた。
そんな篠塚氏が年代毎の巨人のベストナインを選出し、各選手のエピソードを語っていく連載がスタート。第1回は、篠塚氏も活躍していた1980年代の巨人ベストナインを選出してもらい、その理由を聞いた。
1980年代にクリーンナップを担ったクロマティ(左)と原
【篠塚和典が選出した80年代の巨人ベストナイン】
1番 レフト 松本匡史
2番 ショート 河埜和正
3番 セカンド 篠塚和典
4番 サード 原辰徳
5番 センター ウォーレン・クロマティ
6番 ファースト 中畑清
7番 ライト 吉村禎章
8番 キャッチャー 山倉和博
9番 ピッチャー 江川卓
――まず、1番・レフトに松本さんを選んだ理由は?
篠塚和典(以下:篠塚) やはり、走れるということ。当時は、足の速い1番バッターが出たらバントで送るか、走ってから送るか、という時代でした。後ろを打つ僕らにしても、前が出て走ってくれればバッティングがラクになります。
――当時、篠塚さんが松本さんの後の2番を打つことも多かったですが、松本さんが走るのを待つケースも多かった?
篠塚 「絶対に走ってくれるだろう」という信頼がありましたし、待つことは全然苦じゃなかったです。でも今の野球では、そういう1、2番の関係性はあまりないですよね。
――松本さんのバッティングはどう見ていましたか?
篠塚 最初は右打ちでしたが、「伊東キャンプ(1979年、静岡県伊東市で行なわれた巨人の一軍若手選手によるキャンプ )」から左打ちの練習もして、スイッチヒッターになっていきました。左打ちをマスターするのは苦労していましたが、足も生かした内野安打も増えましたし、結果的に正解でしたね。
当時の指揮官だったミスター(長嶋茂雄監督)は、ピッチャーの左・右でバッターを変える傾向がありましたし、1番に定着する意味でもよかったと思います。
――2番・ショートには河埜さんを選ばれました。
篠塚 守備がよかったですね。
バントなどの小技もしっかりとできる選手でしたし、逆方向へ打つのもうまかった。"つなぐ"という意味で、2番に適していると思います。
【原は長嶋茂雄のあとでも「4番の仕事はやっていた」】
――3番・セカンドにご自身を選ばれています。
篠塚 選んでおいてなんですが......自分のことを話すのもアレなので、ここは飛ばしてもいいですか?(笑)
――それでは代わりに、私が篠塚さんのすばらしさをまとめさせていただきます(笑)。2度の首位打者(1984年、1987年)と4度のゴールデングラブ賞(1981年、1982年、1984年、1986年)。
1984年は3番・篠塚、4番・原、5番・レジー・スミス、6番・クロマティという打順が多かったですが、長嶋さんが同年の開幕戦での篠塚さんのバッティングに対して、「うまいよね」と絶賛されていたのも印象的でしたし、同年、打率.334で首位打者を獲得された時の二塁打の本数(35本)もリーグトップでした。
篠塚 ありがとうございます(笑)。打順は個々の調子などでも変わりますが、確かにその年は3番を任されることが多かったですね。
――4番・サードに選ばれた原さんは、篠塚さんとバッターのタイプは違いましたが、バッティングをどう見ていましたか?
篠塚 やはり長打を打てるのが魅力ですよね。ただ、ファンからは「チャンスに弱い」というイメージを持たれてしまうこともあったし、精神面では大変だったと思いますよ。
――サードの守備はいかがですか?
篠塚 高校、大学と彼がずっとやってきたポジションですし、自分のパフォーマンスを出せる場所でしたからね。ホットコーナーというか、やはりサードが一番合っていたと思います。
――4番・サードといえば長嶋さんの威光があり、ファンの目はどうしても厳しくなってしまっていた?
篠塚 それはあったかもしれませんが、その中でもホームランを打ったし(通算382本塁打)、やはり4番としての役割は果たしていたかなと。長嶋さんや王貞治さんが引退されて、その後に僕らに世代交代していったわけですが、そういう意味では原だけでなく、僕らはみんな大変でしたよ(笑)。「V9の後で、巨人の名前を汚さないようにやれるのか」ということで。
【5、6番はムードメーカーとしても活躍】
――5番・センターにクロマティさんを選ばれた理由は?
篠塚 彼は守備は苦手でしたね(笑)。ただ、その分打ってくれたし、チームの雰囲気をすごくよくしてくれた。ファンを呼び込むパフォーマンスも自然と出ていました。7年間でしっかり成績も残していますし(通算成績/打率.321、171本塁打、558打点)、彼がいてくれたことで僕らも楽しく野球ができました。
日本に慣れよう、日本語を覚えようといった姿勢もすごく伝わってきました。みんなが声をかけて、クロマティもたくさん冗談を言ったり、ちょっかいを出したりしてね。
――4割を打つんじゃないか、と思えるくらい打ったシーズンもありましたが(1989年、打率.378で首位打者獲得)、バッティングはいかがでしたか?
篠塚 日本に来たばかりの頃は、彼自身も「大きいのを打たなきゃいけない」という思いがあったと思うんです。
――6番・ファーストには中畑さんを選ばれました。
篠塚 何でも全力で取り組むタイプでした。自分の守備のことを「俺は、あんまり守備はうまくないから」と陽気に言ってみたり、ムードメーカーでもありましたね。バッティングは逆方向にも打てるし、ある程度の打率を残しています(通算打率.290)。中畑さんは4番を打っていた時期もあるし、調子がよければ4番でも起用できる。ただ、6番にいると相手はかなり嫌だったでしょうね。
私と中畑さんは、セカンドとファーストで守備位置も近かったので、コミュニケーションもけっこうとっていましたよ。ユニフォームを着ていない時でも、中畑さんとは冗談を交えながら野球の話をしたりしましたね。
【7番も脅威。バッテリーは盤石】
――7番・ライトに選ばれた吉村さんですが、やはり膝の大ケガ(プロ入り7年目の1988年、札幌市円山球場での中日戦で、守備中に左膝の4本の靭帯のうち3本を断裂)がなければ......と思わざるをえません。
篠塚 そうですね。入団当初から「4番を打てるバッターになっていくだろう」とすごく期待されていました。あのケガがなければ素晴らしい選手になっていたのは間違いないと思います。そういう思いもあって、ケガはしてしまったけど吉村を選びました。
――吉村さんのバッティングはどうでしたか?
篠塚 当初は、ホームランバッターという感じではなかったんです。どちらかというと打率を残すバッターになってくんじゃないか、と見ていました。野球に対しての考え方もしっかりしていましたし、頭もよさそうだなと。長打を打とうとすると引っ張りがちでしたが、打席数をこなすことでボールに対して逆らわずに打つこともできるようになったり、進化していきました。
技術的には3番やクリーンナップを打つ力は十分にありますが、やはりケガをしてしまいましたからね......。それを加味して7番に入れましたが、7番に吉村がいたら相手チームにとっては脅威ですよ。
――8番・キャッチャーには山倉さんを選ばれました。
篠塚 当時は江川さんがエースとして君臨していましたが、やはり江川さんがいる時のキャッチャーといえば、山倉さん。同級生ということもあるし、息の合ったいいバッテリーでした。早稲田大時代には敵として対戦していて、法政大の江川さんのピッチングをずっと見ていたからか、江川さんのことをよく知っていましたね。
肩もよかったですし、20本以上ホームランを打ったシーズンもあった(1987年、22本塁打)。当時のキャッチャーは「守れればいい」という時代でしたから、それだけ打てれば十分ですよ。
――ピッチャーに関しては、先発ピッチャー限定でおひとり選んでいただきましたが、やはり江川さんですね。
篠塚 プロでは多くのピッチャーと対戦しましたが、高校時代に対戦した時の江川さんの印象が抜群でした。球速もそうですが、やはりボールの質ですね。浮き上がってくるイメージでしたし、みんなボールの下を空振りしてしまいましたから。
――カーブはどうでしたか?
篠塚 ちょっと速く回転させたり、緩めだったりとカーブは何種類かありましたが、やはりバッターは真っ直ぐが気になる。カーブを狙っていたら、江川さんの真っ直ぐは絶対に打てません。
江川さんは、バッターに真っ直ぐを狙われているのをわかっていても真っ直ぐを投げる。そこがすごいんです。それで空振りをとれてしまうんですから。今回は1980年代の巨人のベストナインということですが、僕の中で江川さんは、どの年代を含めても最高のピッチャーと言っていいかもしれません。
【プロフィール】
篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。