谷佳知インタビュー(前編)

 谷佳知氏は、高校時代に甲子園出場を果たし、大学では三冠王、社会人になると都市対抗で新人王に相当する若獅子賞を受賞し、アトランタ五輪では日本代表として銀メダルを獲得した。プロ入り後もシーズン最多安打、盗塁王のタイトルに輝き、日本一も経験。

そんな谷氏に華々しい野球人生を振り返ってもらった。

谷佳知は大学時代にリーグ三冠王でも指名漏れ 失意のなか進んだ...の画像はこちら >>

【大学のリーグ戦三冠王も指名漏れ】

── 野球を始めたきっかけは何ですか?

 3つ上の兄に付いて、小学2年生からリトルリーグに入りました。中学ではボーイズリーグでプレーしました。幼い頃からプロが夢だったので、早くから硬式でした。

── 高校は香川の尽誠学園に進まれます。

 甲子園に行きたかったので、大阪の親元を離れ、仲のよかった友だちと一緒に尽誠学園を選びました。尽誠学園は3歳上の伊良部秀輝さん(元ロッテなど)の世代を含めて、甲子園出場は過去3回(当時)でしたが、「群雄割拠の大阪より確率が高いのでは......」と考えました。

当時の大阪はPL学園高をはじめ、上宮高、近大付高、渋谷高などが強かったです。僕は高校2年時(1989年)に、エース・宮地克彦さん(元西武など)を擁して、春夏連続して甲子園の土を踏むことができました。

── 高校卒業後は大阪商業大学に進み、3年秋に関西六大学リーグで三冠王。社会人の三菱自動車岡崎時代は、95年の都市対抗野球で若獅子賞(新人賞)、96年のアトランタ五輪では日本代表に選出され銀メダルを獲得するなど、輝かしい実績を残されました。プロ野球を現実のものとして考えたのはいつ頃でしたか。

 大学4年の時にプロに行けると思ったのに縁がありませんでした。

失意のまま、三菱自動車岡崎にお世話になりました。大きな挫折ではありましたが、ここに堀井哲也さんという監督(現・慶應義塾大学野球部監督)がおられて、私にとっては大きな出会いとなりました。堀井監督の温かな指導を受け、あらためて練習に励み、勝つ喜びを知りました。そして都市対抗、アトランタ五輪で結果を残し、プロへの道が拓けました。

── 23歳で出場したアトランタ五輪は、アマチュアのみのメンバー構成でした。野球殿堂入りした川島勝司監督のもと、福留孝介さん(元中日ほか)、松中信彦さん(元ダイエー、ソフトバンク)、井口資仁さん(元ダイエーほか)、今岡誠さん(元阪神ほか)など、錚々たるメンバーです。

 96年のドラフトは「当たり年」と言われていますね。五輪メンバー以外にも、黒田博樹(元広島ほか)、和田一浩(元西武ほか)、小笠原道大(元日本ハムほか)といった選手がドラフト指名されました。

【仰木監督、中西コーチとの運命的出会い】

── 95、96年とパ・リーグ連覇をしているオリックスですが、それだけに外野陣はイチローさんをはじめ、田口壮さん、本西厚博さん、高橋智さんなど、充実していました。なぜオリックスを逆指名(2位)したのですか?

 「優勝したい」「関西のチーム」という2つの理由でした。プロ入り後、仰木彬監督(当時)から「アトランタ五輪のテレビ放映は(試合のない)深夜だったから、本塁打を見ていたぞ」と言われました。仰木監督が私を推薦してくれたそうです。守備では、田口さんやイチローに"外野のポジショニング""打球方向の傾向"などを教わりました。

それがのちのゴールデングラブ賞を4度受賞につながりました。

── 97年から2000年まで一緒にプレーしたイチロー選手の印象に残っていることは何ですか?

 練習に取り組む姿勢がほかの選手と全然違いました。寮生活で24時間練習できる環境にあったので、試合終了後でもいつもひとりでマシン打撃をしていました。繊細なコントロールの日本人投手を相手にして7年連続首位打者を獲得したのですが、メジャーのスピードに対応できれば、かなりの成績を残すことは容易に想像できましたね。

── 谷さんですが、プロ1年目の97年はシーズン84安打、2年目にレギュラーを獲得します。プロでやっていける自信めいたものをつかんだきっかけは何でしたか?

 厳しい世界ですから、1年目はついていくだけで必死でした。

やっていけるかなと思ったのは3年目ぐらいからです。僕はラルフ・ブライアント(近鉄ほか)が好きでした。野球人としてホームラン打者は左右関係なく憧れます。しかし、プロに入って「自分のスタイルやタイプを気づかないといけない」と思いました。ホームランを追いかけていたら、1年でプロ野球人生は終わっていたと思います。当時打撃コーチだった中西太さんにバッティングを教わりました。
89年のブライアントの「西武戦1日4本塁打」のとき、近鉄は仰木監督、中西コーチだったのですが、このふたりの指導を受けたのも何かの縁かもしれませんね。

【盗塁王、最多安打のタイトル獲得】

── 2001年に二塁打52本の日本記録を樹立。二塁打へのこだわりはありましたか?

 右中間、左中間、一塁線、三塁線......強くて速い打球を広角に打つ。僕はホームランを量産する打者ではなく、野手の間を抜くタイプだったので数が増えたのでしょう。でも二塁打も長打ですからね(笑)。

── 2002年は41盗塁で盗塁王を獲得しましたが、失敗はわずか4でした。高い成功率のコツは何ですか?

 盗塁はどれだけ勇気を出して走れるか。つまり、スタートが大事です。何度も試合に出ていると、投手のクセもなんとなくわかってきます。そして、最後はスピードを落とさない"速いスライディング"も大事です。それにしても、ライバルの松井稼頭央(西武)や小坂誠(ロッテ)は、打順が1、2番で積極的に走っていました。僕は3番だったので、うしろに4番が控えていることを考えると、三盗で数を増やせなかったのが大変でした。

── 2003年は189安打(シーズン最多安打のタイトル獲得)、打率.350、21本塁打、92打点とキャリアハイの成績でした。

 神がかっていましたね。野球が楽しかったです(笑)。とにかく「三振は打者の負け」と思っていたので、ストレートでも変化球でも打てる球は打ちにいきました。ホームラン打者は振りにいくので三振は多いでしょうが、僕はプロで生き抜くためにミートすることに専念していました。

── 谷流「打撃理論」「ヒットを打つコツ」を教えてください。

 僕は右打ち、要するにライトに打つのが得意でした。右打者が内角球を引っ張るとたいていファウルにしかなりませんが、僕はフェアゾーンに入れられたし、一、二塁間に持っていくことができました。だから困った時でも、余裕を持って打席に入れたのが強みでした。

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谷佳知(たに・よしとも)/1973年2月9日、大阪府生まれ。尽誠学園高から大阪商業大、三菱自動車岡崎に進み、96年ドラフト2位でオリックスに入団。2年目からレギュラーとなり、02年に盗塁王、03年に最多安打のタイトルを獲得。06年に巨人に移籍し、勝負強いバッティングで2度の日本一に貢献。14年にオリックスに復帰し、通算2000安打まであと72本に迫りながらも、15年に現役を引退した