連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第46回

 今から10年前の2014年、ファイターズの栗山英樹監督は2月の名護キャンプで「日本一から逆算すると......」と言ってこう続けた。「このふたりが化けるしかない。

だから2月8日の紅白戦の初戦、先発は翔平と佑樹でいきます」----プロ2年目の大谷翔平とプロ4年目の斎藤佑樹。栗山監督はその前年の秋季キャンプを打ち上げた時点で、ふたりにその決定を伝えていた。

大谷翔平との投げ合いで始まった斎藤佑樹のプロ4年目 投げられ...の画像はこちら >>

【満を持して迎えたプロ4年目】

 前の年の11月から「来年はまずこの日に投げてもらうから」と栗山監督から言われて、ずっと緊張感もありましたし、自分にプレッシャーもかけてきたつもりでした。4年目の僕に求められていたのは、先発ローテーションの一角に食い込むことです。僕は(プロ2年目の終わりに)右肩の関節唇を損傷して、実戦も含めればおよそ半年のリハビリを終えたあとでしたが、2月の名護キャンプに入った時点のブルペンではイメージ以上のボールを投げられている手応えがありました。

 意識していたのは右肩に過度な負担がかからないよう、下半身をうまく使って体重移動をすることでした。ギリギリまでバッターに球の出どころを隠して、うまいタイミングでポンと切り返して右腕を出す時、ボールを押し込むイメージをつくれれば、キレのいいストレートが投げられる。

 そうするためには左足を真っすぐ上げて右足で立つのではなく、左足を少し右足とクロスさせるように内側に入れて、右の股関節の上に上体を乗せるような形で立ったほうがうまくいきました。

 すると自然に右ヒザが折れてくるんですが、これは高校時代に右ヒザを曲げていたのとはまったく理由が違っていました。ホント、不思議ですよね。理想を求めたら、結局は高校時代の形に近づくんですから......あの時は高校時代に戻そうとしたわけではなく、まったく違うアプローチから理想を求めたら、結果的に同じような形になったんです。でも、そう考えると高校時代の自分がどれほど本能だけでいい投げ方ができていたのか、ということにもなるんですけど(苦笑)。

 1年前はブルペンに入ることもできませんでしたし、そう思えば4年目はいいスタートが切れていたと思います。

中垣(征一郎トレーニングコーチ)さんとも、フォームはもちろん、歩き方や走り方まで見直しました。

 うまく使えていない筋肉を動かすためにはどうやって足を着地させればいいのかといった、筋肉や関節のことを学んで、さまざまなトレーニングを取り入れました。満を持して迎えた4年目でしたし、最初の登板となる紅白戦では、とにかく結果を求めなければと感じていました。

【恐怖心に勝たなければならない】

 紅白戦の2月8日は土曜日で、スタンドはいっぱい、最上段には立ち見の人がズラリと並んでいました。先にマウンドに上がったのは翔平です。これまでにも「マー君と投げ合う」などとよく言われましたが、ピッチャーが対戦するのはバッターですから、僕は投げ合うという意識をあまり持ったことがありません。

 それでも翔平の指にかかった時のストレートは高めに伸びれば空振り、低めに投げれば力のないゴロが内野の前に転がります。

インコースにいけばバットをへし折る、その威力はイヤでも感じさせられました。だからこそ、僕は僕のピッチングをするだけだと自分に言い聞かせていました。

 そのためにはまず、自分のなかの恐怖心に勝たなければなりません。それから、自分のなかの盛り上がる気持ちにも勝たなければならない......年末からブルペンに入って、あれだけ準備してきたのに、いざキャンプに入って、紅白戦で先発して、たくさんの人に見られて気持ちが高ぶると、どうしても力んで、フォームがブレちゃうんです。

 力感なく、周りで見ている人が「あれっ、ずいぶん軽く投げているのに、なんだかやけにボールは来てない?」と不思議に思うような、そういうフォームで投げることがテーマでしたから、力を抜くところは抜いて、入れるところは入れる。静かに弓を引いて、ギューっと引っ張って、踏ん張るところは踏ん張って、力を溜める。

そして矢を離す瞬間、一気に身体を解放してあげる......そんなイメージを目指していました。ダイナミックに見えるけど、決してエイヤっと投げるイメージではありません。

 初球、右バッターのアウトローに投げて、バットがピクリとも動かない。これでワンストライクをとる。2球目は懐を抉るシュートを投げておいて、平行カウントからの3球目、タイミングを外す変化球をポンと投げる......目指していたのはそんなピッチングでした。

 実際、あの紅白戦ではバッターをギリギリまで見ながら、内へ外へ、ポンポンと投げ分けることができていました。

(中田)翔にインコースのストレートをレフトスタンドへ運ばれて1点をとられてしまいましたが、リズミカルなピッチングができたという印象です。

 その前の年、ほぼワンシーズンを通して一軍で投げられなかったことを思えば、こうして試合でバッターに投げながら、ピンチで何を投げようかと考えることさえも楽しかったし、高まる気持ちを抑えるのに必死なくらいでした。栗山監督からは「今まで無意識にできていたことが、意識してできるようになってきた」と言っていただきました。

【野球やるのをあきらめた】

 思えばあの年のキャンプ中盤、名護から国頭(二軍のキャンプ地)へ行った時、そこでネットスローをしたら、1年前のことを思い出してしまって......よくここまで投げられるようになったなと思いました。あの時は塁間すら投げられませんでしたし、恥ずかしい話、ホテルの部屋に戻って泣いてしまったこともありました。そのうち何とかなると思っていたのが、いつまでたっても投げられなくて、「ホント、これ、どうしよう」って、だんだん怖くなってきたんです。

 じつはその時、ふと野球やるのをあきらめたことがありました。あきらめてしまうとこれが簡単なもので、そもそも野球をやりたいと思っていたから苦しかったんです。でも、今年はもう野球はできない、リハビリの年にしよう、どうせならフォームもしっかり見直そうってハラを括った途端、ラクになりました。あきらめたら、焦らなくなった。あきらめるって、大事なことなんだなと思いましたね。あきらめるってことが意外な力をもたらしてくれたんです。

 たとえば打たれた瞬間にわかるような、でっかいホームランを打たれたとします。そこで、ずっと打球を追って、入るのか、入らないのか、できれば入らないで、って念じるんじゃなくて、すぐにあきらめて、次のバッターのことを考える。あきらめるというのは、自分の考えを変えるということなんです。そういう心境に至ったら、いろんなことを感じることができるようになりました。そのタイミングで、僕は「この3年間は勉強の年だったんだ」と割り切るようにしました。

 4年目の初登板は開幕2戦目(3月29日)でした。札幌でのバファローズ戦はうまく立ち上がって、4回ツーアウトまでヒット1本のピッチングだったんですが、そこから安達(了一)さんに初球をセンター前へヒットを打たれて、盗塁されて、坂口(智隆)さんにタイムリーを打たれて、あっという間に先制点を許します。5回には糸井(嘉男)さんにスライダーをライトスタンドへ運ばれて2点目。6回には連打を浴びてさらに2点をとられて0−4とされたところで交代、勝つことはできませんでした。

 2度目の先発は少し間隔が空きます(4月10日、札幌でのイーグルス戦)。この試合は立ち上がりからストライクが投げられなくて、初回、1番(岡島豪郎)、2番(藤田一也)のふたりを立て続けに歩かせてしまいました。そのランナーを2本のヒットで還してしまい、2失点。

 2回もまた先頭からふたりを歩かせたところで交代(51球)となり、この後、ファーム行きを告げられました。フォアボールをあんなに出していたら、バッターとの勝負にはなりません。なぜストライクを投げられなくなるのか、それは気持ちの問題なのか、技術の問題なのか......そんな課題と向き合わなければならなくなりました。

*     *     *     *     *

 2014年5月29日、西武第二球場でのイースタンの一戦。その日のスコアブックを辿ってみると斎藤が初回、ライオンズに投じた23球のうち、ワンバウンドしたボールが6球あった。2回はゼロ、3回は3球、4回に6球、5回には4球、6回にも1球......この日の94球のうち、20球がワンバウンドだった。何もワンバウンドがすべてダメだというわけではない。しかしこの日の斎藤のワンバウンドはすべてがダメだった。それはなぜなのか──。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している