2023年の日本はWBC優勝に始まり、バスケのW杯では48年ぶりに自力での五輪出場権を獲得、ラグビーのW杯でも奮闘を見せた。様々な世界大会が行なわれ、スポーツ界は大いなる盛り上がりを見せた。

そんななか、スポルティーバではどんな記事が多くの方に読まれたのか。昨年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2023年1月19日配信)。

※記事内容は配信日当時のものになります。

野球人生を変えた名将の言動(8)

星野伸之が語る仰木彬 前編

 指導者との出会いが、アスリートの人生を大きく変える。1987年から11年連続で二桁勝利を挙げ、オリックスのエースとして1995年、96年のリーグ制覇に貢献した星野伸之氏は、当時の仰木彬監督のもとで投球の意識が変わったという。

 現在は野球教室での指導をはじめ、野球解説者やYouTubeでも活動する星野氏に、仰木監督の印象や采配、自身の登板時のエピソードなどについて聞いた。



仰木彬の屈辱的な投手交代に「頭にきた」星野伸之。試合後、「一...の画像はこちら >>
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――仰木監督の第一印象はどうでしたか?

星野伸之(以下:星野) 最初は、僕は阪急(現オリックス)の選手、仰木さんは近鉄の監督をしていたので話す機会はありませんでしたが、対戦していて感じたのは「相手の嫌がることを徹底して実行する監督だな」ということです。例えば、若くてほとんど一軍の試合に出場していない選手でも、僕からヒットを打ったことがある選手は必ずと言っていいほど僕の登板時に起用してきました。打順も一辺倒ではなくいろいろと変えてきましたし、非常に嫌な打線を組んでくる印象がありましたね。

――1992年に近鉄の監督を退任され、1994年にはオリックスの監督に就任。自分のチームの指揮官になった仰木監督はどうでしたか?

星野 その頃の僕は「中堅」と言われる年齢でしたし、ある程度の実績も積んでいたので、細かく何かを求められることはありませんでした。外でお酒を飲もうが、「野球で結果を出せばいい」という感じでしたね。
そもそも仰木さん自身が「飲む時は飲む」という方でしたから。いつかのキャンプでは、休みの前日だったと思うのですが、飲んでフラフラしながらホテルに帰ってきたのを見ました(笑)。

――仰木監督の投手起用はいかがでしたか?

星野 僕が先発ピッチャーとして考えていたのは「先発したら完投」でした。ただ、仰木さんになってからはクローザーの平井正史をはじめ、リリーフ陣にいいピッチャーが揃っていたこともあって、先発ピッチャーの球が怪しくなってくるとベンチがバタバタと動き始めました。

 特に僕は球威がなかったので、球がちょっと高くなってくると仰木さんも「そろそろやな」という感じになるんでしょうね。グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)では外のブルペンが見えるので、動きがすぐにわかりました。

――星野さんが先発時の交代の目安は、球の高さだったんですね。

星野 おそらくそうだと思います。ただ、仰木さんが監督になってからも、完投がなかったわけではありません。延長11回までひとりで投げて、サヨナラ勝ちで勝利投手になったこともあります。その時は、「球の高さは間違えていない」という自負がありました。回が進むにつれて、ただでさえ遅い球速がさらに落ちていたのは自分でもわかっていましたが、それでも交代させられなかった。

やはり高さを交代の目安にしていたんでしょうね。

 先ほど話したように、自分の頭には「先発したら完投」という考えがありましたが、仰木さんがリリーフ陣を整備していたので「先発したら5回くらいまではしっかり頑張ろう」という考え方に変わっていきましたし、どれだけリリーフ陣に負担を少なくバトンを渡すか、ということを意識するようになりました。

――当時のリリーフ陣の中でも、リーグ優勝した1995年に15勝5敗27セーブと大活躍した、高卒2年目の平井投手の活躍がセンセーショナルでした。

星野 チームとしても「平井まで繋げば勝てる」という感じでしたからね。ただ、3イニング登板したこともあったり、その翌日にも投げたり......今では考えられません。

 前年、平井が高卒1年目の1994年だったと思うんですが、ある試合で無死満塁のピンチになった時に平井を登板させたことがあったと記憶していて。
仰木さんや投手コーチの山田久志さんら首脳陣からすれば、「抑えたら儲けもん。自信もつくだろうし」みたいな感じだったんでしょう。今思えば、その時点で次の年は平井をリリーフにしようという意図があったのかもしれません。

――仰木監督は若手をその気にさせる、ポテンシャルを引き出すことにも長けていたんですね。

星野 若手だけではないですが、期待の選手は我慢して使うことを徹底していました。イチローもそうですよね。
仰木さんが監督としてオリックスにきた1年目にイチローをすぐさま抜擢して、史上初の200本安打と大ブレイク。イチローに関しては成績に関係なく1年を通して使い続けるつもりだったようですし、素質を見抜く目もすごかった。「この選手はいい」となれば、思い切った起用をしていましたね。

――打線は日替わりオーダーでしたが、仰木監督は相手ピッチャーとの相性を重視して起用をしていた印象があります。

星野 当時のキャッチャーだった、若かりし頃の中嶋聡(現オリックス監督)はほとんどの試合で下位打線を任されていたんですが、一度だけ4番を任された時がありました。仰木さんは「4番を任せるからには、絶対にバントのサインは出さない。4番なんだからその気でいけ」とハッパをかけていました。結果、打ったかどうかはちょっと覚えていないのですが......それくらい思い切って、相性のいい投手に打者を当てていくんです。

――仰木監督は選手と積極的にコミュニケーションをとるタイプでしたか?

星野 選手たちの様子を見るためなのか、いつもグラウンドを歩いていました。サングラスをかけていることが多かったんですけど、サングラスの隙間から目が見えるんですよ。その目が、ものすごく選手たちを見ているんです。歩くのは単純に体を動かす目的もあったでしょうが、選手たちの表情を見ているんだろうなと思っていました。

 あと、自分から選手たちを集めて話すというタイプではなく、ミーティングなども中西太ヘッドコーチに任せていました。中西さんの話はわかりやすくてスッと頭に入ってくるので、仰木さんも信頼していたんだと思います。

――仰木監督の言動で覚えていることはありますか?

星野 僕が先発した日本ハム戦で、野球人生で初めて4回2/3で代えられたことがあったんです。一死一・二塁で、相手のバッターが相性の悪い落合博満さんという場面だったのですが、オリックスが4点リードしていたこともあって、「ここで代えられるのか?」と......。正直、頭にきたので「一度お話をさせてもらっていいですか?」と直接話をしにいったことがあります。

――その時の仰木監督の言い分は?

星野 「打たれて点差を縮められたくなかった」というまっすぐな理由でした。先発でずっと投げていた身としては、あのタイミングでの交代は納得できませんでしたし屈辱的でしたが、引退後、自分が投手コーチになった時に仰木さんの気持ちがわかりました。代えるのが遅れたら、えらいことになる。現役時代は自分のことで必死でしたけど、チーム全体を見る指導者の立場になった時にそれを痛感させられました。

(後編:仰木彬政権下、独走するオリックスで常に抱いていた緊張感。「10.19」の悪夢を経て「仰木マジック」は磨かれていった>>)

【プロフィール】

星野伸之(ほしの・のぶゆき)

1983年、旭川工業高校からドラフト5位で阪急ブレーブスに入団。1987年にリーグ1位の6完封を記録して11勝を挙げる活躍。以降1997年まで11年連続で2桁勝利を挙げ、1995年、96年のリーグ制覇にエースとして大きく貢献。2000年にFA権を行使して阪神タイガースに移籍。通算勝利数は176勝、2000三振を奪っている。2002年に現役を引退し、2006年から09年まで阪神の二軍投手コーチを務め、2010年から17年までオリックスで投手コーチを務めた。2018年からは野球解説者などで活躍している。