誰も「5分50秒の壁」を越えられなかった――。

 MGCファイナルチャレンジの舞台となった東京マラソンは、パリ五輪男子マラソン代表の最後の1枠を決めるレースになった。

だが、日本人選手は誰も2時間5分50秒の設定記録を打破できず、MGC3位の大迫傑(NIKE)が2大会連続でのマラソン代表の出場権を得た。

「5分50秒に届かない練習だった...」東京マラソンでパリ行...の画像はこちら >>

ゴール後、泣き崩れる西山雄介 photo by Tsutomu Kishimoto

 
 レースは、序盤からペースメーカーが安定せず、設定ペースの1キロ2分57秒より遅くなり、時には3分を越えるなど、激しく上下動した。そういう中、有力選手が続々と脱落していった。8キロ過ぎにブダペスト世界陸上のマラソン代表の山下一貴(三菱重工)が遅れ、23キロ過ぎには細谷恭平(黒崎播磨)、27キロ付近では日本記録保持者の鈴木健吾(富士通)が集団から落ちていった。32キロ地点で、浦野雄平(富士通)が前に出るも足がつり、西山雄介(トヨタ)が33キロ過ぎに日本人トップに立った。35キロ地点でのタイムは、1時間44分17秒で設定ペースよりも1秒ほど早く、耐えていけば「5分50秒の壁」が破られるはずだったのだが‥‥。

「パリ五輪に行きたかった」

 レース後、西山は声を絞り出すように、そういった。

 昨年のMGCは、自他ともに認めるほど状態が良かった。「パリ五輪がすべて。それしか今は考えられない」と相当な覚悟を持って決戦に臨んだ。しかし、冷たい雨の中で思うようなレースができず、46位に終わり、レース後は号泣してスタッフに抱きかかえられてミックスゾーンを後にした。惨敗のレースのショックは深く、現役引退も考えた。

 だが、1歳4カ月の娘が歩き始め、息を切らして階段を上る姿に「自分も負けてられない。娘と同じように成長していきたい」と思い、気持ちを奮い立たせた。さらに支えてくれた妻をパリに連れて行きたいという思いからロードに戻って来た。
 
 今回のレース前、佐藤敏信総監督(トヨタ)は「調子はいい。5分50秒を突破する練習はしてきた」と太鼓判を押し、第3代表の座を仕留める準備は万端のはずだった。
 
 だが、前半のペースの狂いが、後半に大きな負荷をかけることになった。

15キロで設定タイムより6秒の遅れが生じ、ハーフでも5秒の遅れが生じていた。

「ハーフの時点で遅くても62分20秒、早い場合は62分ちょうどぐらいで行ってほしかった。それよりも遅く(62分55秒)なっていたので、そこからは、もう割りきって、後半は積極的なレースを展開しようと心掛けていました」

 しかし、35キロ以降にペースを落としてしまい、そのままペースが上がらなかった。総合9位、日本人トップの2時間06分31秒で西山のパリへの挑戦は終わった。

「今回の取り組みが5分50秒に届かない練習だったというのは、結果からも確かだと思います。まだまだだということです」

 西山は、これまで1回目より2回目、2回目より3回目とそれぞれのレースを反省して、課題に取り組むことでレベルアップしてきた。

そうして迎えた今回の東京マラソンは、過去のレースをアップデートして、今までのマラソンで一番いい状態だったという。それでも結果が出ない時があるのがマラソンだ。

 ただ、レ-ス後、西山の言葉で気になったことがあった。
 
 昨年のMGCについて西山は「MGCは振り返れなかった。レースを振り返るとマイナスになってしまう」と言った。悪夢のようなMGCは、振り返るにはつらすぎたのだと思うが、そこから目を背けず、真正面から向き合い、そのレースから何かしらの教訓を得ていたらどうなっていただろうか。

もしかすると35キロ以降、違った展開が見られたかもしれない。ゴール後、西山はパリ五輪に届かなかった現実を知り、顔を覆って泣き崩れた。

 後続の選手がゾクゾクとゴールし、ミックスゾーンを選手が通り抜けていく。取材対応をするためにミックスゾーンに入る手前の椅子に腰かけた西山は放心状態で、まるで『あしたのジョー』の最後のジョーの姿のようだった。頬には涙が伝った白い線が残っていた。 

 其田健也(JR東日本)は、33キロ付近で浦野と西山が前に行く中、少し遅れていた。

だが、そこから歯を食いしばって前に出た。36キロ過ぎに日本人トップの西山に15秒差まで詰め寄ったが、そこからペースを上げられなかった。最終的に2時間06分54秒で総合11位、日本人2位でレースを終えた。
 
 其田は、昨年のMGCでは15キロ付近で、右ふくはらぎを痛め、途中棄権となり、悔しい思いをした。そのことを忘れずに「3月3日に合わせるために、苦しい練習をこなしてきた」という。「5分50秒」という壁を越えるためには、キロ2分58秒のペースが必要になる。昨年からそのペースでの練習を進めていたので今回、練習通りにいければ、あとはコンディション次第でどうにか越えられると思っていた。

「コンディションは良かった、あとは自分次第だった」

 しかし、5分50秒は、それほど容易に出せるタイムではなかった。

「前半、もっとハイペースでいけば、もっとラクな展開になったのかなと思いました。集団が大きかったですし、ペースの上げ下げもあったので厳しいレースでしたけど、条件はみんな同じ。前半、余裕があった分、後半勝負を考えていましたが、やっぱり5分50秒は、そんなに甘いタイムではなかったです。今日の結果が今の力の限界だったのかなと思います」

 其田は、レースに対する言い訳を一切しなかったが、その表情は悔しさでいっぱいだった。他の選手と同じように、MGCからここまで苦しい練習に耐え、相当に大変な思いをしてきたはずだ。其田にとって、それはどんな時間だったのか。改めて聞くと、目から涙があふれた。

「パリだけを目指していたので......悔しさはありますけど、やれることはやってきたので、悔いはないです。ここまで苦しんだ分、次に活かさないといけないと思っています」 

 パリ五輪に賭けてきたものがいかに大きかったのか、その悔し涙がすべてを物語っていた。30歳だが、「やめる気はない」と語っており、次は東京で34年ぶりに開催される世界陸上が待っている。この経験を活かすには、最高の舞台になるだろう。

 山下は、あまりにも早い8.6キロでの失速だった。

「もう、お尻から左足のもも裏、ほぼ左足全部に力が入らなくて、2分57秒のペースにはついていけるような状態ではなかったです」

 山下は、神妙な顔つきで、そう言った。

 MGCの時は直前に足を痛めて、満足できる走りができなかった。今回は、昨年11月にハムストリングを痛め、膝痛も出たが、最後の1、2週間でなんとなくまとまってきた。だが、痛みや違和感を完全に取りきれたわけではなかった。

「良くなっていたし、行けるかなと思ったんですけど、完全に取りきれなくて不安な部分が最初から出てしまって......。監督には、練習が出来ていなかったので、『後半、離れてもしっかりとリズムを作って、最後までやりきって、次に繋げられるマラソンをしよう』と言われました。でも、もう足が動かなくて、話にならない感じでした。悔しいというのもおこがましいぐらい情けない走りをしてしまいました」

 山下は、そうレースを振り返ったが、9キロ手前での失速は、完走するまで33キロも残っていた。もはや勝負ができず、左足に踏ん張りがきかない状態であれば、その時点でダメージを最小限にするために棄権という選択肢もあったはずだ。

「いや、もうあまりにも沿道からの応援がすごくて、ここで中途半端にやめようとは思わなかったです」

 山下はパリ五輪の出場権獲得が絶望になったなかでも、多くの人が声をかけてくれたことがうれしかったという。その熱量は、箱根駅伝の2区を走った時と同じぐらいだった。最後まで、沿道の声に背中を押されて走ったレースは、2時間17分26秒の46位に終わった。これでブダペスト世界陸上、MGC、そしてMGCファイナルチャレンジとつづいたビッグレースの戦いがようやく一段落ついたことになる。

「ここまで長かったですね。さすがに、ちょっと疲れました(苦笑)。でも、まあ自分はここで終わりではないので......。いったん休んで次、東京の世界陸上に向けて、今度はしっかり勝って代表になりたいです」

 まだ26歳、次のロス五輪も狙える。故障なく、万全の状態で走ることができれば鈴木健吾の持つ日本記録2時間04分56秒を越えるのは、山下ではないだろうか。それほどのポンテシャルを持つ男の挑戦は、まだこれからもつづいていく。

 彼ら3人以外にも福岡国際の巻き返しを狙った細谷は2時間6分55秒で12位、2年ぶりにマラソンを走り、33キロ周辺で一度日本人トップに立った浦野は2時間8分21秒で17位、そして最も期待値が高かった鈴木は「力がなかった」と2時間11分19秒で28位に終わり、一山麻緒(資生堂)との夫婦そろっての五輪出場は叶わなかった。