微笑みの鬼軍曹~関根潤三伝
証言者:川崎憲次郎(後編)
前編:関根潤三が川崎憲次郎に施した「英才教育」はこちら>>
【沢村栄治に会ったことがあるよ】
1989(平成元)年を最後に関根潤三はヤクルトスワローズを去った。一方の川崎憲次郎は、ルーキーイヤーを関根の下で過ごして飛躍のきっかけをつかみ、後任の野村克也の下でさらなる才能を開花させた。以来、関根と川崎は「評論家と選手」という関係となった。
「いや......、たった1年間だけという気はしないですね。関根さんにはいろいろなことを教わったし、たくさんの思い出がありますから。たとえばね、あの人、優しそうに見えてものすごく怖いんです。よくギャオス(内藤)も言っているけど、打たれたり、ピンチをつくったりすると、関根さんは笑顔でマウンドにやってくる。
川崎から白い歯がこぼれる。
「......笑顔で『おまえさん、何、やってるんだい?』って言いながら、本当はすごく怒っている。だから僕たちは陰では、《竹中直人》って呼んでいましたから(笑)」
好々爺然とした関根ではあったが、当時のスワローズ選手たちからは「笑いながら怒る人」の持ちネタでブレイクした「竹中直人」と呼ばれていたのである。評論家となってからも、関根と川崎との交流は続いた。野球のことだけではなく、関根が歩んできた道のり、その来歴を聞いたことは何度もある。
「必ず戦時中の話からするんです。
関根の自宅まで送っていく途中の車内のことだった。川崎は「関根さんは沢村栄治に会ったことがあるんですか?」と尋ねた。すると関根は「あるよ」と答えたという。
「じつは僕は、昔から沢村栄治さんをすごくリスペクトしているんです。
【人材を発掘して育てる「関根流指導術」】
冒頭で述べたように、関根と川崎がともに過ごしたのはわずか1年だけのことだ。それでも、緊張とともに過ごしたルーキーイヤー、当時18歳の川崎にとって、その日々は濃密な時間として、今でも強く息づいている。
「マウイキャンプでの練習メニューが出てきたんですけど、100メートル走30本とか、50メートル走100本とか、そんなのばっかですよ。グラウンドの隣に大きな公園みたいな広場があって、めちゃくちゃ長い直線なんです。
野手はアメリカ・ユマで別メニュー調整を行なっているため、投内連携やフリーバッティング練習はできない。「ただ走る、ただ投げる」、その繰り返しだった。若い頃に徹底的に身体をいじめ抜いたことが、のちに役立つことになった。関根への感謝の思いは強い。
「プロ入りしてすぐに基礎体力をつけることができたこと。
90年に就任した野村は、低迷が続いていたスワローズに黄金時代をもたらすことになる。その一端を担ったのが川崎だった。しかし、その萌芽はすでに関根監督時代に芽生えていたものだったのだ。
「たしかに野村さんの功績は大きいし、その点がクローズアップされがちだけど、その土台をつくったのは間違いなく関根さんです。おそらく自分がすぐに辞めることは自分でもわかっていたはずです。そのうえで、『いい素材の選手を見つけました。そして鍛えました。あとはどうぞご自由にやってください』と手渡すことができるのが関根さんなんです。そして、それは誰にでもできることじゃない。関根さんならではのすごいところなんです」
さらに川崎は続ける。
「そもそも関根さんは若い人が好きなんです。池山(隆寛)さん、広沢(克己/現・広澤克実)さん、ギャオス(内藤)、そして栗山(英樹)さん、みんな関根さんが育てた選手ですから。人材を発掘して、そして育てる。それが関根さんなんです」
【次の世代、次の時代を見据えた監督】
さらに川崎は「関根の功績」を振り返る。
「関根さんって、明るくて優しいイメージがあるじゃないですか。本当はすごく怖い一面もあるみたいで、本当のところは僕もよくわからない(笑)。だけど、その明るさ、優しさがヤクルトのチームカラーをつくったような気がします。若い選手が好きで、僕らみたいに何も実績がない選手を引き立ててくれた。どうしても、《野村チルドレン》が取りざたされるけど、僕やギャオスや栗山さん、そして池山さん、広沢さんは《関根チルドレン》だと言ってもいいと思いますね」
関根がヤクルトを率いた87~89年までの3年間は、4位、5位、4位という成績に終わった。一度もAクラスに浮上できず、390試合を戦って171勝205敗14分という記録を残した。しかし、その数字以上に多くの人材を残した。くしくも、野村克也が口にしていた「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」を関根もまた体現していたのである。
監督退任後の90年に発売された関根の自著『一勝二敗の勝者論』(佼成出版社)には、「ヤクルトの息子たちへ」と題して、各選手へのメッセージが綴られている。この中には当然、川崎についての言及もある。その一部を引用したい。
川崎憲次郎へ──
きみは性格的には強く、攻撃的なピッチャーだ。相手が強ければ強いほど、牙をむいて立ち向かっていくプレイヤーだ。それは、プロの選手としては、貴重な財産である。戦う前に、相手に勝つというつもりで勝負にのぞんでいく、その心を忘れないことだ。
ヤクルトにはきみのようなタイプのピッチャーが少ない。内藤とともにヤクルトを背負っていく選手なのだから、きびしく自分を磨きあげ、練習にとりくんでいくことを期待する。
この言葉を受けて、川崎が言う。
「関根さんが使ってくれなければ、僕はここまでの成績は残せていなかった。結果的に、後に僕は故障に苦しむことになりました。引退後、関根さんに会うと、『オレが壊したな、ゴメンな』って謝られました。でも、まったく関根さんのことを恨んではいないし、むしろ感謝しています。ある意味では、勝負を捨ててまで僕を使ってくれた。普通はできないですよ。それでも関根さんは僕を信じてくれたんです......」
その言葉にさらに熱が帯びる。
「......関根さんはいつも次の世代、次の時代を見つめていたんです。僕は今でも、関根さんに感謝しています。もしも最初の監督が関根さんじゃなかったら、この世界に残っていなかったと思いますから」
わずか1年の濃密なひととき。すでに50代を迎えている川崎にとって、「あの1年」はとても大きな意味を持っていたのである──。
関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82~84年に大洋(現DeNA)、87~89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。03年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。
川崎憲次郎(かわさき・けんじろう)/1971年1月8日、大分県生まれ。津久見高から88年ドラフト1位でヤクルトに入団。1年目から4勝を挙げ、2年目には12勝をマーク。プロ5年目の93年には14勝を挙げリーグ優勝に貢献。日本シリーズでもMVPに輝くなど、15年ぶり日本一の立役者となった。98年には最多勝、沢村賞のタイトルを受賞。01年にFAで中日に移籍するも、右肩痛のため3年間登板なし。移籍4年目は開幕投手に抜擢されるも成績を残せず、04年限りで現役を引退した。12、13年はロッテの投手コーチを務めた。現在は解説をはじめ、さまざまなジャンルで活躍している。