大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから~小柳宜久(後編)

前編:自称「大阪桐蔭で一番下手だった」男の唯一のエピソードはこちら>>

 大阪桐蔭での3年間を終えた小柳宜久が進んだのは、東京にある明星大。昨年、創立100周年を迎えた私立大で、野球部は日本体育大や東海大と同じ首都大学野球連盟に属し、現在は二部で戦っている。

大阪桐蔭野球部出身としては小柳が初で、「東京に出たい」「野球を続けたい」という本人の希望に沿って、監督である西谷浩一が中心となり探した。

大阪桐蔭「藤浪世代」の25番目の男は議員秘書→経営コンサル→...の画像はこちら >>

【就職浪人の末、議員秘書に】

 小柳が東京の大学を希望したのは、「情報が一番集まる東京で、この先やりたいことを見つけたい」という理由だった。また野球を続けようと思ったのは、「高校で辞めたら、野球が嫌いなまま終わってしまう。だからもう一回、野球を好きになって終わりたかった」からだ。

 しかし、いざ大学野球のグラウンドに立ってみると、思ったほど気持ちが盛り上がってこなかった。高校野球とは違う、大学野球特有の雰囲気も一因だった。

「平日の朝昼は、当然授業があり、週6日が練習。

そうなると野球と勉強で毎日が埋まってしまって、東京でやりたいことを見つけたいと思っても、そのための時間が取れない。『これはまずい』と思うようになったんです」

 野球も野球以外のことも中途半端になるのが見えた。そこで2年からマネージャーに転身。それ自体は小柳が力を発揮できるポジションで、最上級生になればマネージャーを束ねる主務になるだろうと思われた。しかし、本人曰く「主務にならなかったのではなく、なれなかった」。後輩のマネージャーから不満が出たという。

「野球以外の活動が忙しくなり、練習に参加できない日が増えたりすると、後輩が『ついていけません』となって。大学のなかに体育会系の部活をまとめる組織があり、そこでもいろいろと活動するようになり、地域のロータリークラブの青年部にも入ったらますます忙しくなってしまって......。ただ、時間は足りないんですけど、自分的にはそういう活動が楽しくなっていったんです」

 マネージャーとして最後まで野球部に関わりながら、新たな目標がぼんやりと見え始めたのがこの頃だった。

 大学卒業時には、1年の就職浪人も経験。このあたりから、小柳の人生はダイナミックに動き始める。世間では、秋に衆議院議員総選挙が行なわれた年だ。

学生時代から政治に興味を持ち始めていた小柳に、知人から声がかかった。

「広島で立候補する候補者の選挙を手伝ってみないか」

 当時は時間もあり、知らない世界への興味も湧いた。二つ返事で了承すると、選挙を手伝った議員が当選。すると、期間中の働きぶりが評価されたのか、今度は秘書として事務所で働かないかと誘いを受けた。23歳で議員秘書となり、議員事務所のある国会議事堂に通う日々が始まった。

 経験豊富な先輩秘書に指導を受けながら、議員の日程調整や必要資料を各省庁に連絡して取り寄せるなど多忙を極めたが、小柳は「知らない世界に触れることが面白かった」と充実の日々を過ごしていた。

【経営コンサル、ゼネコンにも従事】

 ただ長くやるつもりはなく、空き時間には就職活動を再開。翌春には経営コンサルティング会社、船井総合研究所のグループ会社で物流に特化した「船井総研ロジ」に就職。面接で一度は落ちたが、「どうしても入りたい」と電話で直訴。そこから社長面接にまでこぎつけ、逆転での入社を勝ちとった。

 これもなかなかのエピソードだが、船井総研ロジでは大きく分けて3種類の仕事を行なった。

「ひとつは外食チェーンのコスト削減、最適化や戦略面の提案。もうひとつは、トラックのドライバー不足に悩む運送会社の採用の手助けや戦略の提案です。

そして福利厚生サービスの一環として給与を社員へ前払いできるシステム"ペイミー"の導入など、新規事業の立ち上げと各企業への営業。ここでの仕事もやりがいがありました」

 順調にキャリアを積んだが、4年で退社。ひとつのことを極めるより、次の目標に向かいたくなるタイプなのかもしれない。

 その一方で、大学時代からロータリークラブ青年部の活動を通じ、各方面の経営者とも積極的に交流。経営への関心が高まるなか、「自分もいつかは......」とその時に備える意味でも、さまざまな分野の仕事を知っておきたいと思うようになっていった。

 次の転職先はいわゆるゼネコンで、総合建設会社の住協建設。

現場監督として、マンション建設のための大工や左官職人の手配など、施工管理をおもな仕事とした。じつは、小柳の父は広島で建設会社を経営。この時点であとを継ぐプランはなかったが、建設関係の仕事に携わるなかで、徐々に考えが整理されていった。

「いつか会社を経営したいという、漠然とした思いは持ち続けていて、そこを考えるとゼロから起業するより、実家の会社を母体として事業を拡げていくほうが効率的だと思うようになっていました」

 そうした事業モデルがあることは早くから理解しており、興味を持っていた。

「"ベンチャー型事業承継"という言葉があって、実家のビジネスを継いでそのまま拡大させるのではなく、今ある会社を活用しながら新規事業に挑戦していく。建設会社でも、たとえば不動産業務を絡めて、飲食店の居抜き物件を自分たちで仕入れてリフォームする。それを飲食店の経営を望んでいる会社や人に提供するか、もしくは自社で店舗経営までやってもいい。そういうことを考えると、頭のなかで一気にプランが広がっていったんです」

 目標が明確になると、即行動に移したくなるタイプである。ある時、自分なりの経営プランをまとめると、実家へ出向き、父を前に熱っぽく語ったことがあった。今後、この会社をどうしていくのがいいのか。将来、もし自分が会社を継ぐとしたら何をすればいいか。即席でのいわばプレゼンは、2時間にも及んだという。

 経営者の視点に立って語る小柳のなかには、ひとつの芯がある。ロータリークラブの活動を通して出会った若手経営者や、船井総研ロジでクライアントとして関わった社長たちから学んだ理念だ。

「仕事はお金儲けだけが目的じゃなく、人を幸せにすることが大事だということです。会社経営がうまくいけば、社会がよくなり、その周辺で働く人の暮らしも豊かになる。僕が将来的に会社経営の先に目指しているのは、一人ひとりがなりたい自分になれる社会の実現です。こういう話の時に僕は職業奉仕という言葉を使うのですが、職業を通じて社会に奉仕して、奉仕した先の最終目的がなりたい自分になれる社会をつくること。そのためにどんなビジネスがいいか、どんな会社がいいか......常にここを頭に置いて考えています」

【父の会社で新事業を立ち上げ】

 4月からは広島に戻り、父が経営する「(株)ヒロコウ」へ移る。肩書きは「専務取締役CMO/アトツギ」。"CMO"はチーフ・マーケティング・オフィサーの略で、日本的な表現なら最高マーケティング責任者。カタカナの"アトツギ"は中小企業庁などがブランド化している名称で、家業を継ぎつつ、新しいビジネスを始める"後継ぎ"を指す。

 会社ではどういった動きから始めていくのか。

「社内ベンチャーのような形で新しく事業部を立ち上げて、建設業界の職人を増やすための採用代行をひとりで始めます。まだ事業部の名称も決まっていませんが、お客さんは同業の建設会社。その会社の採用担当者に代わって、僕が動いて職人を採用していく。採用コンサルティングですね。

 船井総研時代にもトラックの運転手が不足しているということで採用代行をやりましたが、建設業界も職人が業界危機レベルで不足している。仕事はあるのに人がいない状態で、職人が不足していたらいい仕事もできなくなる。そこで人手不足で困っている建設会社を助けながら自社の利益も生み、業界を盛り上げたい。そういう思いで始めていきます」

 ビジネス講座でも聞いているような淀みない語りに、"元大阪桐蔭野球部"のプロフィールを忘れそうになるが、小柳の話はまだまだ続いた。

「やりたいことはほんとにいろいろとあるんです。小学3年の時にじいちゃんが亡くなってからばあちゃんが継いでやっていたラーメン屋も復活させて多店舗展開したいのもひとつ。今は閉店したんですけど、業態は変わっても名前はそのまま復活させたいですね。自分たちの会社で店の内装、リフォームもやって、自社営業の飲食店を持つ建設会社をウリにするきっかけにできればなおいいですし。

 70歳くらいになったら喫茶店もやりたい。昔ながらの小さな喫茶店で、自分が持っているビルの1階でやるのが理想。今の会社はまだまだ小さいですけど、広島では実績、信用もあるので、そこを活用させてもらえば多くの可能性を持っています。

 あとは学校教育にも関わりたい。学校法人をつくるか、専門学校をつくるか......。なりたい自分になれる社会づくりを考えた時、人としての素養といったものは教育に起因する部分が多い。核となる教育をビジネスとして確立させられたら、たとえ僕が死んだとしても、僕が目指した世界を学校というモデルを通じて実現できますから。そして最終的にはファンドを設立したい。チャレンジしたい若い人の夢を実現できるように支援したい。ここまでいきたいです」

【今は野球部のメンバーと会いたい】

 さながら実業家の卵といったところだろうか。同級生たちが今の小柳を見ると、さぞかし驚くだろう。「まだプランを描いているだけです」と言うが、そのひと言ひと言に自信がみなぎっている。小柳のなかで、高校野球のトップを走る集団のなかで過ごした時間は、財産としての残っているのだろうか。

「高校時代はやっぱり大きいと思います。あの環境で過ごして、あれだけの経験をしたメンバーには社会に出て戦う武器が2つあると思うんです。1つは日本一、連覇という大きな目標を立てて、そこに挑み実現できたという自信。もう1つは、目標実現に対するプロセスをわかっているという強み。僕は春夏連覇にはまったく貢献できなかったですけど、チームメイトの姿を間近で見られたこと、成功した集団のなかに身を置いて学べたことは得難い経験でした」

 あの連覇から時が流れ、12年前は複雑な気分で見つめたセンバツ大会が今年も始まった。大阪桐蔭の試合は見るのだろうか。

「有給を消化しながら時間はあるので、引っ越しの準備をしつつ、テレビの前で応援すると思います。予定では3月末が引っ越しなので、その頃に決勝で戦ってくれていたらいいですね。頑張ってほしいです」

 大学時代に二度、野球部の同期会に顔を出したことがある。気乗りはしなかったが、東京から大阪へ向かい参加したという。

「正直、あまり行きたい感じではなかったんですけど、逃げたくない気持ちが強かったんだと思います。逃げずに向き合わなきゃいけない。そんなことを思いながら大阪へ行った気がします」

 またいつか野球部のメンバーに会いたいかと尋ねると、小柳は即答した。

「今はみんなと会ってみたいです。今回もこの取材の話をいただいて、すごくうれしかったんです。まさか僕がこういう取材を受けるとは思わなかったんですけど、おかげで水本(弦)とも久しぶりに連絡が取れて話せましたし、平尾(奎太)ともLINEで『最近どうなの?』みたいなやりとりができました。みんな仕事を頑張っていることもわかったし、またみんなと会って話をしたいですね。機会があれば、一緒に仕事もしてみたい。そんなことを思っています」

 いつの時か、25人の同級生たちと顔を合わせることを楽しみに......新天地で迎える春、かつて"25番目の男"だった小柳宜久の新たな挑戦が始まる。