語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第23回】坂田好弘
(洛北高→同志社大→近鉄)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。
連載23回目は、日本ラグビーの歴史に燦然と輝く「レジェンドWTB」坂田好弘(さかた・よしひろ)を紹介したい。1968年のニュージーランド遠征でオールブラックス・ジュニア相手に4トライを挙げた「世界のサカタ」だ。2012年には日本人として初めて「国際ラグビー殿堂」入りを果たした伝説のランナーである。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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「オールブラックスに最も近づいた男」坂田好弘を評する時、最もわかりやすい肩書きはこれだろう。
高校生で楕円形に出会い、1975年に現役を引退する17年間で、700を超えるトライを挙げたと言われている。その領域は、もはや伝説だ。
坂田は1942年、大阪府に生まれた。中学時代までは柔道に夢中で、黒帯も取得して地方大会で上位に食い込むほどの実力だった。ラグビーとの出会いは、本当に偶然だったという。
京都・洛北高校の合格発表を見に行った時、たまたまグラウンドに目を向けると、ラグビー部が練習をやっていた。柔道では狭い道場でずっと過ごしていたため、「広々としたところでやっていて魅力を感じた」。
その1週間後、坂田はWTBとして同志社大の2軍との試合に出場することになる。ルールもトライの仕方もわからない。しかし、監督からの指示は実にシンプルなものだった。
「ボールを持ったら走れ。ボールを持っている選手を倒せばいい」
そのアドバイスを忠実に実践した坂田は、いきなりトライを挙げた。それが700以上を記録した伝説的なトライ数のスタートだった。
【空飛ぶフライング・ウイング】
高校卒業後は同志社大に進学。関東勢が上位を占める大学ラグビーにおいて、同志社は関西で唯一無二の強豪校だった。その恵まれた環境で坂田の能力はさらに飛躍し、1年時と3年時は日本選手権で社会人チームの近鉄を破り、日本一にも輝いている。
日本代表に初めて選出されたのは大学2年生の時。当時は今ほど日本代表の試合は多くなかったが、1963年から10年間で16キャップを重ねた。
坂田のラグビー人生において、クライマックスは1968年~1969年だろうか。
1968年、日本代表を率いる大西鐵之祐監督は「展開・接近・連続」というテーマを掲げていた。そのスタイルがどこまで世界に通用するのか、ニュージーランド遠征で腕試しを行なった。
遠征最初の4試合は連敗が続くも、その後は3連勝。ポバティベイ州代表戦では坂田が5トライを挙げて23-15で勝利(当時トライは3点)し、前傾姿勢で飛ぶように走る坂田の姿を現地新聞は「フライング(空飛ぶ)ウイング」と称えた。
そして、この遠征のメインマッチとなるオールブラックス・ジュニア戦で奇跡が起きる。出場した相手選手の多くがのちにオールブラックス入りした23歳以下チームに、日本はスピードを武器に臆することなく真っ向勝負し、坂田が4トライを奪取。23-19でオールブラックス・ジュニアを下し、世界中のラグビーファンを驚かせたのだ。
「6つのトライのうち、4つを挙げることができた。誰もニュージーランドのチームに勝つとは思っていなかった時代に勝ちました」
遠征10試合で14トライ。この活躍が評価された坂田は、ニュージーランドのラグビー年鑑で「プレーヤー・オブ・ザ・イヤー」受賞者5人のひとりに選ばれた。
【坂田をオールブラックスに呼べ】
世界に「サカタ」の名を広めた走り屋は、その向上心をさらなる高みに向ける。
「弱くするのも強くするのも自分自身。
1969年、坂田は所属する近鉄に無給休暇という形で許可をもらい、単身でニュージーランドに乗り込んだ。坂田はニュージーランドのなかでも特にラグビー熱の高い地域、カンタベリーを留学先に選ぶ。
留学先での愛称は「デミ」。目が大きかったために学生時代は「デメ(出目)」と呼ばれていたが、ニュージーランドでのチームメイトが身長の小さい坂田を見て「DEMI(半分)」だと勘違いして名づけられた。今でも坂田は世界各国で「デミ・サカタ」の愛称で親しまれている。
カンタベリー大学のクラブに所属した坂田は、出場した27試合で30トライを記録。カンタベリー州代表選手としてプレーし、日本人初のニュージーランド州代表選手権1部リーグ選手となった。さらにニュージーランド大学選抜やNZバーバリアンズにも選出されるなど、破竹の活躍を続けた。
「坂田をオールブラックスに呼べ!」
地元メディアが声高に報じるほど、ラグビー王国で坂田が与えた衝撃はすさまじかった。ただ、当時のルールで日本人がオールブラックスに選ばれるには、ニュージーランドで2年間プレーしなければならなかった。周囲から「もう1年、ニュージーランドでプレーして」と説得されたものの、坂田は「言葉も通じず、日本食もなかった」ため、1年で日本に戻ることにした。
帰国後も坂田は、走り続けた。
現役引退後、坂田は指導者の道へ進む。大阪体育大ラグビー部の監督に就任し、関西大学Aリーグを5度制覇。退任する2013年まで数々の名選手を育成した。また、関西ラグビー協会会長、日本ラグビー協会副会長として、ラグビーの普及に大きく寄与した。
【人生を変えたラグビーとの出会い】
フランスで行なわれた2007年ラグビーワールドカップの開会式典には、世界各国の伝説的なラガーマン「ラグビースターズ」の一員として登場。2012年にIRB(国際ラグビー評議会)より日本人として初めて「国際ラグビー殿堂」に選ばれた。
「(ラグビーフットボールの発明者)ウェッブ・エリスと同じところに名を並べるのはうれしい。名誉なことだと思います。ラグビーをずっとやってきて、一生懸命やってきた結果だと思う。ラグビーに感謝しています」
坂田の好きな言葉は「Rugby Opens Many Doors」。