木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第14回:水沼貴史評(4)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

JSLで日産の黄金期を築いた名コンビはあうんの呼吸もアイコン...の画像はこちら >>

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 水沼貴史が日産自動車に入社した当初、憧れの先輩、木村和司はまだ、右サイドを主戦場とするウインガーだった。

「たぶん加茂(周/当時日産監督)さんの構想としては、僕が入ったら、僕をウイングにして、和司さんをゲームメーカーというか、"本当の10番"にしようとしていたんだと思うんですよね」

 だからこそ水沼は、自身がレギュラーポジションをつかむまでに少しばかり時間を要したことで、「最初、(加茂の)構想はちょっと狂ったと思うんです」と振り返る。

 とはいえ、水沼が右ウイングに定着したあとは、「和司さんはちょっと(中盤に)下がるような感じになって、ハシラ(柱谷幸一)がトップで、金田(喜稔)さんが左(ウイング)」という前線の布陣が確立。

 こうしてお膳立てができてしまえば、木村と水沼が完璧なコンビネーションを作り上げるまでに、それほど多くの時間はかからなかった。

 水沼いわく、「和司さんが(パスの)出し手になって、僕が受け手になったことで、『あうん(の呼吸)も超えてますよね』『アイコンタクトも超えてますよね』みたいな関係性ができた」のである。

「本当に自然と走ったら(パスが)出てきてたし、そういうときってサッカーは一番楽しいですよね。それがふたりだけの関係じゃなくて、もうひとりを挟んだとしても、それがまたわかり合えてるっていうのが、日産では随所にあった。

 和司さんは『ワシがこう持ったら、ここを狙う』とか、僕は『こういう形で動き出したら、ここを狙ってますよ』とかっていう感じで、(パスの)受け方、出し方、そのタイミングとかは、試合前もそうだし、練習や紅白戦でも、うまく合わなかったときとかには、ふたりでよくしゃべっていました」

 ウイングから攻撃的MFへと転向したばかりの木村にとっても、優れたウイングの存在は頼もしかったに違いない。

「(木村の他に)マリーニョもいたから、日産には(パスの)出し手が結構いたんですよ。でも、出し手って、受け手がいなかったら何の意味もない。いくらスルーパスがうまい人だって、うまく受けるヤツがいなかったら、出しようもないし。

 和司さんは、ゲームを作る頭があるし、キックの種類も多いから、ウイングは左に金田さんがいて、右に僕がいて、そこに出すのは、たぶん楽しかったんじゃないですかね。

右サイド(からの攻撃)は、代表でも結構ストロングになっていたし、日産でもいい形が作れていたと思います」

 なかでも水沼が、木村から最高のパスをもらった試合として記憶しているのは、1985年8月11日に神戸ユニバー記念競技場で行なわれたワールドカップのアジア2次予選、香港戦だ。

「僕は一瞬後ろを見てスタートを切ってるだけなのに、和司さんから(前方に走り込んだ自分の)足元にピタッとスルーパスが出てきた。そのパスが一番ですね」

 3-0で勝利したその試合、水沼は木村からのパスでDFラインの背後へ抜け出すと、ダメ押しとなる3点目を決めている。

 水沼によれば、「足元で受けるか、相手の裏で受けるかっていうとき、僕は足元よりも、まず裏で受けようとするんです、絶対に」。

 そんなとき、よく使われていたのが、いわゆるチェックの動き。自分が一度下がる動きを見せて、相手をおびき出した瞬間にその逆をとり、相手の裏に走り込むというフェイントだ。

「自分がここで受けたいときに、逆に動いて戻るみたいな、ちょっとしたことですけど、そういうことを常にふたりでしゃべってたので、僕がちょっとモーションをかけると、和司さんは『あ、貴史は後ろ狙ってるな』ってわかるんです」

 その一方で、水沼もまた「和司さんがちょっと右にボールを出したときっていうのは、背後(を狙っているとき)なんです」と、木村の意図やクセを熟知していた。

「そうやって『このタイミング!』っていうのをふたりですごくしゃべって、練習のなかで繰り返していくと、あとはただ『貴史!』って言っただけで、裏だってのがわかるし、僕が『和司!』って言っただけでも、裏だっていうのがわかる。そういう関係性になっていったんですよね」

 そのコンビネーションは、日産ではもちろん、ともにプレーする日本代表でもまったく変わることがなかった。

「だって当時の代表は、日産か、読売かのセットみたいな感じで(選手が)選ばれていたんで。ターゲット(センターフォワード)は、ハシラがいたり、原(博実)さんがいたりとかで変わったりはしましたけど、原さんは、『(自分が所属する)三菱重工より代表のほうがいいボールが来るから』って喜んでましたよ(笑)」

 そうやって日産から日本代表へとチームを変えても、木村とは良好な連係を築けたのには、当時の日本代表監督、森孝慈の存在が大きかったと、水沼は言う。

「森さんがうまかったんだと思います、和司さんの扱いは。

同じ広島(出身)で、よく知ってるし、たぶん森さんは『和司を生かすためにどうするか』って考えていたんだと思います」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。

埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。

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