木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第15回:水沼貴史評(5)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

満員の国立が熱狂した木村和司の「伝説のFK」 その歴史的な瞬...の画像はこちら >>
 水沼貴史は法政大学卒業時、数ある誘いのなかから"就職先"に日産自動車を選んだ。それから40年以上が経過した今も、水沼は自身の決断について、「めっちゃよかったです」と振り返る。

「やっぱり、そういうところ(攻撃的なスタイルでこれから強くなっていくチーム)でサッカーができたのと、(木村)和司さんみたいな選手と知り合えたのは、本当によかった」

 ただ、水沼は木村という選手について、「どうやってわがままを抑えるか、みたいなところもあった」と、正直な気持ちを明かす。

「一種、ひとり違う世界の人なのかなって感じはしますよね。考え方とか、行動とか。僕は(年齢が)下だったからいいけど、上の人たちは『和司は生意気でしょうがねえ』みたいな感じも相当あったと思います。だから、たぶん普通だったら、ただの面倒くさいヤツで終わっちゃうんですよ。まあ、実際、面倒くさいヤツですけど(苦笑)。

 でもやっぱり、自分の強みみたいなところをちゃんとみんなにも伝えてくれるし、それをプレーで表現できる。それはすごいなって思います」

 酒豪の木村に対し、酒を飲まない水沼。水沼が年下だったというだけでなく、そんな違いもまた、ふたりがいい距離感を保てた理由なのかもしれない。

「和司さんは、人を家に招待するのが好きだから、何回かは行ったことありますけど、和司さんはでっかいジョッキにチューハイみたいなのを作って飲んでいても、僕は飲まないし、近くにはいるんだけど、なんとなくこう......、少し距離を置きながら、なんですよ。

だから和司さんも、僕に対してそういう感じでいる。

 僕は酒の席につき合うことはなかなかできなかったですけど、合宿の最後とか、サッカーの話をしているところに顔を出したときには、いろんなことを教えてもらいましたしね」

 そんな"近すぎず、遠すぎず"な関係が、ピッチ上にも好影響をもたらしたのかもしれない。先輩を先輩とも思わないタイプの木村も、後輩の水沼には一目置いているところがあったようだ。

「和司さんは、強面は強面だし、無口は無口ですよ。自分からは全然しゃべらないですしね。若い選手たちは、たぶん怖かったんじゃないですか。でも、話をすれば面白いし、日本リーグの頃は、キャンプの打ち上げみたいな場で、若いヤツらを連れて結構飲んだりはしていましたよね」

 水沼自身は、ユース代表以来のつき合いが長かったこともあり、「なんとなく僕のなかでは、こうしとけば大丈夫みたいな、和司さんの扱い方がわかっていました」。

「それはのちのち、僕がキャプテンになったときも生きたんですよ」と語る水沼は、あちらの世界とこちらの世界とをつなぐ役割を担っていた、と言えるのだろう。

「日産が2年連続三冠になったとき、僕、キャプテンだったんですよ。当時の日産は面倒くさい人ばっかりでしたけど(苦笑)、そういう人たちを、たぶんうまくまとめられていたんじゃないかなって思います」

 そんな"木村の扱い"について、水沼にはひとつだけ後悔していることがある。

 伝説のFKが生まれた試合として知られる、1985年10月26日のワールドカップ最終予選、韓国戦でのことだ。

 水沼はその歴史的瞬間を、木村に最も近い場所で目の当たりにしている。

「僕は一応、ダミーのようなふりをして(木村の)横にいるんです」

 そう語る水沼は、伝説のFKの直前、木村と並んでピッチ上に置かれたボールの前に立っていた。

「だけどもう、僕はまったく蹴る気はなくて。腰に手をやって、ずっと見てるんです」

 おそらく韓国の選手にしても、水沼が蹴るなどとはつゆほども考えていなかっただろう。何より水沼自身、「ああいう雰囲気のなかで決めるのは、和司さんだろうなって思ってた」のだ。

「あの日韓戦の前も、和司さんは日本リーグでバンバン(FKを)蹴るようになって、ペナのラインか、アークくらいのところだったら、ほぼ入ってた。だから、PKより確率がよかったんですよ、本当に」

 だが、このときのFKは、ゴールまで25m以上の距離があった。木村が高確率で決めていた位置よりも遠かった。だからこそ、水沼は「それで入れたのはすごいなと思いました」。

「横で見てて、GKが一回逆に動くんですよね。で、間に合わない。『そっちに行くのか!』みたいな軌道で、GKを動かした時点でもう勝ちなんですよね」

 そう回想する水沼の後悔は、このあとだ。

「FKを蹴って入ったときに、たぶん和司さんはあれだけのゴールだから、喜びを爆発させて走り回りたかったと思うんですよ」

 ところが、隣にいた水沼は、「すぐに抱きつきにいっちゃったんです」。

「あれはかなり悔いが残っています。走らせればよかったなぁって。それは今でも、本当に思っています」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。

国際Aマッチ出場54試合26得点。

水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。

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