野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・谷沢健一(後編)
前編:「おまえはもう球威がない」 星野仙一を切った55歳の新人監督はこちら>>
監督と選手が、試合中のグラウンドで一触即発となった。
1983年6月29日、宮城球場で行なわれたヤクルト対中日戦。
つづく角富士夫の打球は、本来なら遊撃への併殺打コースもエンドランがかかっていたため、宇野は二塁ベースカバーへ入ろうと動き、さらに打球がイレギュラーバウンドして左中間へ抜けた。
直後、中日ベンチから監督の近藤貞雄が飛び出し、何事か叫びながらマウンドに向かった。内野陣と捕手の中尾孝義が集まると、近藤は宇野を指差して一喝。これに対して宇野が言い返したため、近藤はさらに激昂した。この醜態のすべてを、一塁手として見ていた谷沢健一に聞く。
【反骨心のある選手を使う近藤流マネジメント】
「最初に『内野、集まれ』みたいなことを言ったんですよ、近藤さんが。それで何かと思ったら、『おまえ真面目にやれよ!』って宇野に言った。そしたら、宇野は宇野で『真面目にやってますよ!』って口答えしてね。また近藤さんが怒って」
宇野につかみかかろうとした近藤を、中尾が必死に押しとどめ、二塁手・上川誠二が宇野の前に立ちはだかった。一瞬の睨み合いのあと、近藤がベンチに帰ってその場は終わった。
試合後、ヘッドコーチの黒江透修は「いかなる理由があれ、選手が監督に口答えするなんて言語道断だ」と怒りをあらわにしたが、近藤は豹変。「若い選手はあのくらい反骨心があったほうがいい」と言っている。
「たしかに反骨心というかね、近藤さんはミーティングで黒江さんと一緒になって、選手を厳しく叱り飛ばして、こき下ろすようなことも言っていたけど、そこで沈んじゃう選手と、抵抗して向かってくる選手を見極めていましたよ。とくに若い選手は、目の前で叱っても反発するぐらいがいいと。おとなしくて沈んじゃう奴は使わなかったですから」
もちろん、そのような指導法がよかったか悪かったかと問われれば、現代では容認されるものではない。当時であっても決して褒められたものではなく、谷沢をはじめ、比較的叱責を受けることの少なかった主力選手たちでさえ、嫌な思いをしていたという。
それでも近藤にとっては、すべて勝つための手段だった。そしてそのやり方は、実際に1982年のリーグ優勝という結果につなげた。
「そうそう。あの頃の中日は、反発する選手がどんどん増えていったんですよ。だから、それぞれの個性が強く出るようになって、『野武士野球』なんて言われるようになった。宇野だけじゃない。田尾(安志)も平野(謙)もそうでした。コーチやスコアラーに何か言われても、素直には聞かない。
【主力選手が計画したまさかの反乱劇】
近藤が掲げた「野武士野球」は、その土地ならではの気質に合った野球を目指すという持論に根ざしていた。すなわち、「戦国時代に信長、秀吉、家康を輩出した尾張・三河地方らしく、地方豪族が決起して天下を獲る。そんな攻撃的な野球をやろう」というもの。投手を中心とした守りの野球が全盛だったなか、攻撃野球は異端だった。
「ただ、近藤さんも黒江さんも嫌われていることに変わりないわけです。だから82年は9月の頭、広島遠征の時に選手たちでミーティング開いて、『優勝しても、胴上げしないでおこう』ってみんなで言って。居酒屋での飲み会で、主力選手だけでしたけど、ピッチャーもいましたよ。あの年は三沢(淳)が選手会長でしたから、号令かけてね」
奇しくも同年のパ・リーグでは、監督を胴上げして落とすという計画を立てたチームがあった。筆者は当時の主力選手から、その話を聞いている。もちろん実行されることはなかったが、中日では胴上げ自体をしない計画があったのだ。それでも実際に優勝できたのは、選手同士がひとつにまとまったからだろうか。
「それはありましたよ。みんな同じ思いで、ひとつにまとまっていました。
それまで使っていた自分のバットでは対応できず、谷沢は後輩選手が使っていたタイ・カッブ式のバットを借りて打ってみた。軽く、ややグリップが太い形状が自分の感覚に合った。急遽、契約メーカーとは別のメーカーに製造を依頼。その新しいバットを手に、谷沢は9月14日の巨人戦で、1対2と追う6回、江川から起死回生の同点適時打を放った。
試合を見ていた契約メーカーの社長がバットの違いに気づき、クレームがきたが仕方なかった。
【観客が喜ぶ面白い野球を見せたい】
さらに9月28日の巨人戦では、完投ペースだった江川を中日打線が9回に攻略。代打・豊田誠佑の安打を口火に、ケン・モッカ、谷沢の3連打で無死満塁の好機を演出。大島康徳の犠飛で1点を返すと、宇野、中尾の連続適時打で一挙4点を奪い、6対6の同点に追いついた。
そして延長10回、2番手・角三男(現・盈男)から二死満塁の好機をつくると、大島のサヨナラ適時打が飛び出し、劇的な勝利を飾った。
首位巨人とは1.5ゲーム差の2位ながら、残り試合数が巨人より11も多い中日にマジック12が点灯した。近藤は試合後にこう言った。
「スキだらけでもいい。浮き沈みが激しくてもいい。野武士のような、野性味あふれる試合をしたいんだ。大差をひっくり返したり、エラーした選手がホームランを打ったり。観客が一番喜ぶはずですよ。江川を倒して最高のゲーム。選手に感謝している。
黒江が考案した打撃練習の成果も実を結び、10月18日のシーズン最終の大洋(現・DeNA)戦で中日はリーグ優勝を決めた。歓喜の瞬間、真っ先にベンチを飛び出したのは、かつて近藤から引退を勧告された星野仙一と木俣達彦だった。胴上げが始まり、両手を大きく広げた近藤の体が七度、宙を舞った。
「仕方なく、胴上げしました(笑)。あの時、近藤さんはひとり、はしゃいでいましたよ。ちょっと目立ちたがり屋なところもありましたからね。これは日本ハムの監督をやっていた頃の話ですが、僕は評論家としてネット裏で試合を見ていたんです。するとオープン戦なのに、近藤さんがわざわざベンチを飛び出して審判に抗議するんですよ。でも、そうでもしないと、当時の日本ハムは注目されなかったから」
勝敗を超えて、観客が喜ぶ面白い野球を見せたいという思いが近藤にはあった。プロ野球の監督として、この思いはあってしかるべきなのか。
「それはあっていいと思いますよ。82年に優勝した時も、『ファンが喜んでくれるような面白い野球をやりたい』って、よく言っていましたから。
【ヤクルト・池山監督に注目するわけ】
谷沢が語る近藤は、とにかく怒る人で、その怒りにひるまず反発してくる選手を生かす監督だった。野球の未来を見据え、投手分業制を提唱するほど理想を追い求めたからこそ、現実とのギャップに人一倍いら立ちを覚えていたのかもしれない。
投手の分業制が当たり前になった今の球界だが、逆に近藤のような指導者はほとんど見られなくなった。
「今の時代では難しいでしょうね。近藤さんと黒江さんのコンビなんて、もう絶対に無理ですよ。ただ、近藤さんが築いた投手分業制がその後、どの球団にも広まるきっかけになったのは間違いありません。そして、それが当たり前になった今、どの球団も似たような野球をするようになってしまった。だからこそ、もう一度、違う野球をやる人が出てきてほしいという願望があります。その意味で、私は池山監督に注目しているんです」
2026年からヤクルトの監督に就任した池山隆寛は、「打ち勝つ野球」を標榜。足は生かすが、送りバントはほとんどしない。そのスタイルは、多くの監督が投手力を軸に守り勝つ野球を志向する現代球界にあって、ひときわ異彩を放っている。思えば、近藤も中日監督就任当時、他球団とは一線を画す攻撃的な野球を打ち出したのだった。
「村上(宗隆)が抜けて、細かい野球だけでは勝てないという考えなんでしょうね。バントしない、というのは近藤さんもそういうところがありました。『2番・平野が送りバント』って言ったって、それはシーズン終盤のことであって。セーフティーやったり、バスターやったり。ファースト、サードが出てきたら打っていいぞ、自分で判断しろと。池山監督もそんなところがありますよ」
初めて監督になった年齢は近藤が55歳、池山が59歳。それまでの指導者経験の長さも、最下位チームを預かったことも共通する。
「ベンチでも表情豊かで、喜怒哀楽がすごく激しいですよね。そういう監督は久しぶりだし、何か、昭和の野球の匂いがしますよ。健闘を期待しています」
(文中敬称略)










![Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023 “GIFT” at Tokyo Dome [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/I/41Bs8QS7x7L._SL500_.jpg)
![熱闘甲子園2024 ~第106回大会 48試合完全収録~ [DVD]](https://m.media-amazon.com/images/I/31qkTQrSuML._SL500_.jpg)