【指揮官と箱根駅伝】帝京大・中野孝行監督が『世界一諦めの悪い...の画像はこちら >>

連載第3回:指揮官と箱根駅伝/中野孝行(帝京大駅伝競走部監督、国士舘大OB)~後編~

前編〉〉〉帝京大・中野孝行監督を箱根路に誘ったカーラジオの記憶 10人中10番目からスタートした大学時代

【3年目の快走とシード権を目標に掲げた4年目】

 3度目の箱根駅伝では、中野は4区を言い渡された。

「調子もよかったから、"なんで、俺を2区に使わないんだ"って思っていましたね。監督から説明はなかったのですが、前年に2区で失敗したからだと思います。

一度失敗した区間にもう一度起用するのは、やっぱり躊躇するんですよね」

 当時は、花の2区を任せてもらえなかったことに屈辱感を募らせたが、指導者になった今ならば、その理由が理解できた。

 とはいえ、区間エントリーの時点では補員に登録されていた。

「2区を走る同級生よりも"俺のほうが強い"と思っていましたから、彼が走れなくなった場合、自分が2区を走る可能性もあるから、ギリギリまで"いつでも2区を行くぞ"と気持ちの準備をしていました。一方で、4区だったら"区間上位でいかないとダメだ"って考えていました」

 結局、中野は予定どおりに4区で出走した。"なにクソ"という負けん気の強さが、中野を好走に導いた。区間3位。3人抜きの活躍だった。

 しかし、その胸中はというと、2区で前年の雪辱を果たすことを誓っていただけに、その機会を得られなかった悔しさが大きかった。

 チームの箱根駅伝の成績は、1年時が総合11位、2年時が13位、3年時が12位と、なかなかシード権には届かなかった。

「1年の時は当然シード権のことを考える余裕はなかったのですが、2年、3年と箱根を走ってみて、シード権は簡単じゃないなってあらためて感じました4年生になって初めてチームのことを考えるようになったんでしょうね。記録会ではチームメイトの記録を上げるためにペースメーカーを買って出て、7年ぶりに全日本大学駅伝にも出場を決めました(*当時は選考会はなく、指定期間内の10000m公認タイムの上位8人の合計で選出された)。

 私ともうひとり、10000mで29分半の記録を持っていて、"もしかしたら自分たちはやれるんじゃないか"っていうのを、みんな感じ始めていたと思います」

 当時は学生で、29分半で走る選手は、全国的にもそんなにいなかった。

チームメイトに自己ベストも続出し、遠い夢のように思っていた箱根駅伝のシード権が次第に現実味を帯びてきた。そして、シード権どころか、総合6位を箱根の目標に掲げるようになった。

【最後の2区で記憶に残る恩師の言葉と上田誠仁氏】

 最後の箱根駅伝、中野はもちろん2区を言い渡された。

「4年目はすんなり2区を任されました。当然、"俺しかいないだろ"って思っていましたが(笑)」

 本番が近づくにつれて、2区を走る重圧は重くのしかかり、直前には2年前と同じような症状にも見舞われたが、なんとか対処して、第62回大会(1986年)を迎えた。

 国士舘大の1区は、中野と同級生の中村新吾が担い、区間2位と好スタートを切った。

 中野は、トップ中継の東京農業大学から12秒遅れで鶴見中継所を出発した。そして、約5kmで東農大の長田千治をかわし、先頭を走った。

 しかし、それも束の間。後方から猛烈な勢いで追い上げてきた駒澤大学の大八木弘明、日本体育大学の鈴木尚人に抜かれてしまう。

 さらには、早稲田大学の川越学、大東文化大学の若林寿、日本大学の笠間三四郎、専修大学の森田修一と、他校のエースたちに次々にかわされ、一度は抜いた東農大の長田にも先行を許した。

 それでも、中野にもエースとしての意地がある。順位を落としはしたものの、最後まで粘った。

 この年、ラジオで解説を務めていたのが、中野が箱根駅伝を目指すきっかけになった上田誠仁氏だった。(上田氏は26歳の若さで山梨学院大の監督に就任したばかりで、翌年に初出場に導く)。

「走っていて、ラジオ解説をしている上田先生の顔が見えたんですよね。弟が翌年度に山梨学院大に進んで上田先生にお世話になることが決まっていたので、『兄貴、だらしなかったぞ』って言われるのが嫌で(笑)、最後は必死に走りました」

 本当は上田氏と同じ5区を走りたいという気持ちも持っていたが、花の2区を任されたからには、その役割を全うしようという覚悟を決めていた。

 もうひとつ、苦しい場面で中野を奮い立たせたのが、国士舘大に誘ってくれた西山一行監督からの言葉だ。

「最後の"戸塚の壁"を上る時には、恩師の西山先生から『抜かれてばっかりじゃ困るぞ』っていう声をかけられたんです。西山先生はあまり怒らないし、褒めることもない先生だったのですが、初めてそんな言葉をかけられました」

 2年前にも苦しめられたラスト3kmからの急坂に挑んでいる時に、耳に飛び込んできた恩師からの叱咤の声に、中野は力を振り絞った。

「厳しい言葉っていうのがエネルギーになりました」

 最後は東農大の長田を再び抜き返して、7番目で戸塚中継所に飛び込んだ。

 中野は5つ順位を落としたものの、区間8位で走り切った。

「自信を持って臨んだし、日本インカレで点を取れなかったぶん、箱根で挽回したいと思っていたので、情けなかったですね。慎重に入って5kmで先頭に立ちましたが、あとは抜かれるだけ。無様でした。

2年生の時の悔しさとはまたちょっと違いました。自分で"エース"という言葉を使うのもためらわれますが、その責任は果たせなかったですね」

 2度目の花の2区を走り終えた中野は、悔しさばかりを募らせた。

【「失敗は、それを次に生かせば、失敗ではなくなる」】

 当時は9位までにシード権を与えられたが、国士舘大はその後もシード権圏内でレースを進めた。

「シード権はチームの誰も経験していないから、最低限シード権は獲ってほしいって思っていました」

 自身の出番を終えたあと、中野は祈るような気持ちで仲間たちの走りを見守った。

 そして、9区では一時10位に後退したものの、アンカーの佐藤知彦が区間5位と奮闘し、総合9位でフィニッシュした。国士舘大は、実に10年ぶりにシード権を獲得。西山監督が指揮を執ってからは初めてのシード権だった。

 歓喜に沸くチームのなかでも、中野の気持ちはなかなか晴れなかった。

「周りが『やったぞ、やったぞ』って言っているんだけど、喜べなかった、残念ながら。本来は、自分がシード権を引き寄せる立場なのに、結局は他力本願になってしまった。それに、『よくやった』と評価してくれましたけど、目指していたのは総合6位でしたから。9位だったことに責任を感じました。

あれだけのメンバーがいたのだから、もっと上位に行けたはずなので」

 中野にとっては悔しい結果だったかもしれないが、中野が2区を担ったからこそ成し得た結果とも言える。確かに"耐える"2区になったが、中野が区間8位と踏ん張ったおかげで、10年ぶりのシード権に届いたのではないだろうか。

 それに、入学した時は10人中10番目だったのが、エースにまで上り詰めたのだ。ある意味、箱根駅伝を通して見る中野の4年間は、彼の成長譚でもあった。

「箱根駅伝は可能性を広げる場でもあると思う。それは間違いない。今の学生を見ていても、あの子がここまで成長するんだって気づく大会でもあります。

 失敗は、それを次に生かせば、失敗ではなくなるんですよね。それを糧や肥料にすれば、その失敗も価値のあるものになりますから」

 中野自身、箱根路では何度も悔しさを味わされたが、それを自らの成長の糧としてきた。

 帝京大の指導者として22年目を迎えた中野は2027年大会まで20年連続出場、過去9大会では8回のシード権を獲得する実績を残しているが、何度も、何度も、"責任"という言葉を口にする。

「箱根駅伝は責任を果たす場だと思うんです。だからこそ、価値のある大会です。

今の選手たちにも、その責任感っていうのを持って走ってほしいなと思いますね」

 とはいえ、中野自身は「責任を果たせなかった」という思いを今も持ち続けている。それが、指導者として箱根駅伝に関わり続けている今の原動力になっている。『世界一諦めの悪いチーム』を標榜するチームの指揮官の挑戦は、まだまだ続く。

●Profile
なかの・たかゆき/1963年8月28日生まれ、北海道出身。白糠高(北海道)―国士舘大―雪印乳業。国士舘大学在学時、箱根駅伝に4年連続で出場。大学卒業後、実業団で競技生活を続け、引退後に実業団チームの指導者となる。2005年11月に帝京大駅伝競走部監督に就任すると、その育成力で高校時代まで実績の少ない選手たちの成長を促し、2008年から次回大会まで20年連続で箱根駅伝出場権獲得中。また過去9回大会のうち8大会でシード権を獲得している。最高順位は、総合4位(2020年)。2021年卒業の星岳(コニカミノルタ)は、オレゴン世界陸上マラソン代表。

和田悟志●取材・文 text by Satoshi Wada

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