この記事をまとめると
■ポルシェの名を冠した初めてのクルマが「ポルシェ356」だ■1954年には軽量化してフロントウインドウが低められた「スピードスター」が誕生
■「スピードスター」の名は限定モデルの名称として現在も911に受け継がれている
初めてポルシェの名を冠して発売されたクルマ「356」シリーズ
1931年にフェルディナンド・ポルシェによって創業したポルシェ社は、さまざまなクライアントのためにエンジンやシャシーに始まる技術を提供する、いわば設計事務所のような存在だった。そのもっとも大きな成功例といえるのは、やはりVWのタイプ1、すなわちビートルで、空冷エンジンをリヤに搭載するという独特な設計と、機能性や居住性に徹したボディスタイルを持つこのモデルは、第二次世界大戦後には大成功を収めるに至ったのである。
一方で、ポルシェの名が冠されるモデルが正式に発表されるのは、1949年のジュネーブショーを待たなければならなかった。
実際の開発はフェルディナンド・ポルシェの子息であるフェルディナンド・アントン・エンルスト・ポルシェと、それ以前にも多くの車両開発に携わってきたカール・ラーベのチームによるもの。また、ボディはビートルのスタイルも手がけたエルヴィル・コメンダによって描かれた。
356は100%ポルシェの手によって生み出された、じつに魅力的なモデルだったのだ。そして、その走りもまた、これまでの常識を覆す、じつに刺激的なものだった。

ポルシェ356の成り立ちは、ポルシェとVWの関係から見ても面白い。ポルシェが356のプロトタイプを完成させたころ、この両社は極めて重要な契約を結んでいる。ポルシェは今後、VWと競合するモデルを他社のために設計してはいけない。その一方でポルシェは、VWのパーツを自由に使用してスポーツカーを開発できる等々がその骨子で、それはもちろん356にも適用された契約だった。
さらに、VWのディーラー&サービスネットワークを使用できるようになったのも、ポルシェにとっては幸運なことだった。
1948年から1949年にかけて、グミュントの工場で50台ほどの356が生産されると、ポルシェはシュツットガルド郊外のツッフェンハウゼンにあるロイター・ボディ社の工場の一部を間借りして、本格的に356の生産をスタートさせる。初期モデルは1086cc仕様の水平対向4気筒エンジンを搭載する356/1100のみだったが、ここから356にはより強力な1300cc仕様、また1500cc仕様などが追加設定されていく。

また、ボディタイプにもグミュント時代からスイスのボイトラー社によるカブリオレが存在し、こちらも高い人気を博していた。
アメリカ市場に向けたスポーティで軽量なオープンモデルを用意
そして1954年、ポルシェは新たなボディタイプとして「スピードスター」を356のモデルバリエーションに追加設定する。
クーペやカブリオレよりもやや低価格で、かつスパルタンなオープントップモデルがアメリカ市場で売れる可能性があると進言されたポルシェは、より低いデザインのフロントウインドウ(レース時などにはそれを取り外すことも可能だった)やバケットシート、最小限の折り畳み式ルーフを備えたスピードスターを即座に投入。

じつはポルシェは、1952年にコクピットの側面を深くえぐって、やはり着脱式のフロントウインドウを装備したアメリカ・ロードスターを20台限定生産した経緯があり、その成功からもスピードスターがアメリカ市場で広く受け入れられることには確信を持っていた。
356スピードスターは、いわばこのアメリカ・ロードスターの進化版ともいえるモデルであるわけだが、その車重はほかの356シリーズと比較して約70kgも軽かった。搭載エンジンは1500と1500Sの2タイプのみが選択可能で、組み合わされる4速MTは、3速と4速がさらにクローズドレシオ化され、最高速こそ170km/hに抑えられてはいたものの、0-100km/h加速は17.4秒という記録を残している。

サスペンションではフロントアクスルの強化が目立った改良点で、新たにトーションバースタビライザーを装着したことでオーバーステアの傾向は若干弱まった。
1955年、ポルシェはそれまでの通称356プレAに大幅な改良を施し、新たに356Aを発表。スピードスターの生産は1958年まで継続されるが、この年に誕生したコンバーチブルDにその市場を譲ることになる。

その弛まぬ努力の結果、スポーツカーとして非常に魅力的な存在へと進化を遂げた356スピードスター。ポルシェにとってこのスピードスターの称号が特別な存在であるのは、後に911シリーズでその名を掲げるモデルが復活を遂げていることからも明らかだろう。
