この記事をまとめると
■「ポルシェ959パリ・ダカール」について解説■1985年よりパリ・ダカールに参戦
■1986年には優勝、2位、6位というリザルトを手に入れた
開発責任者が「眠れぬ夜が何度もあった」と語るほどの難物だった
「ポルシェは恐竜が歩いている頃からラリーをやっている」、往年の名レーサー、ジャッキー・イクスがよく口にするジョークですが、たしかにポルシェは創業間もない頃からラリーに参戦していたことは確かです。クルマをじゃんじゃん売るにはラリーでの好成績ほど宣伝になるものはなかったのですから。今も昔も、ヨーロッパは「ラリーの覇者こそチョッ速マシン」がまかり通っており、高いチケット買わされるF1をはじめとしたサーキットレースはラリーほど販売に貢献はしないのだそうです。
ただし、パリ・ダカール・ラリーと呼ばれていたころのダカールラリーは、そうした顧客層、またポルシェにとっても別格だったのではないでしょうか。つまり、ヨーロッパラリー選手権は簡単に言ってしまえばショートスプリントの連続レースであり、ダカールは総延長距離1万km越えのいわば長距離耐久レースに等しいのですから。
ポルシェ959が活躍の場をパリ・ダカールに選んだ理由はさまざまありますが、最大のポイントはこの「長距離耐久」という性質にほかなりません。
959はご承知のとおりグループBレースの制覇を目指して製作されたホモロゲーションモデル。規定では200台の市販車製造が課されていましたが、ポルシェは283台とも292台ともいわれる生産台数を記録。売れに売れまくった、ということですからパリ・ダカールの宣伝効果は首脳陣をウハウハさせたに違いありません(もっとも、42万マルクという高価なクルマだったにもかかわらず、ほぼ手作りの生産工程によって儲けはそれほどでもなかった様子)。

ただ、ポルシェとしては改造規定の自由度が高く、噂されていたスポーツカーレース開催に期待してグループB参戦を決定していたので(1983年のフランクフルトショーお披露目では『グルッペB』なんて意識先行も甚だしい名前でしたからね)、諸々の事情から未開催となったことには大いに失望したでしょう。ちなみに、288GTOなるグループBのホモロゲマシンを作ってしまったフェラーリも同様だったはずですが、こちらはF40のひな型として大いに元を取ったものと思われます。

スポーツカーレースが開催されないとなると、グループBマシンの使い道はラリーになりますが、そこはプジョー205ターボ、ランチア・ラリー、あるいはアウディ・クワトロなど強敵がひしめきあっていました。いずれも規定を存分に活かした大改造によって1トンそこそこのボディに強力なエンジンを搭載したモデルで(軽量な複合素材を使っているにもかかわらず)、大きく重い959は「戦闘力、低っ!」と思われても仕方なかったことでしょう。ラリー覇者としてのポルシェは軽い車重とRRという有利なトラクションが強味だったので、ツインターボ、空水冷フラット6、しかも前後輪を結ぶ4WDシステムという959のトピックスはまた、重さという足かせも生んでしまったため、開発陣(と宣伝担当重役)はラリー参戦というプロジェクトをゴミ箱送りにしたのでした。
で、959はスポーツカーレースから長距離耐久という性質のパリ・ダカールへと舵を切りなおすのですが、開発責任者のヘルムート・ボット教授でさえ「眠れぬ夜が何度もあった」という難物だったのです。
冒頭のジャッキーをはじめとした砂漠ドライバーたちが乗りこんだ3台は優勝、6位、28位と見事な成績を納めました。が、問題は翌年、953から見た目も中身も959に近づいた1985年のパリ・ダカールだったのです。
1986年のパリダカで優勝!
結論から言うと3台出場するも全滅。1985年の959は953のアウタースキンを替えた程度のラリーマシンで、エンジンや4輪駆動システムも本番の959用でなく953ベース、言葉は悪いかもしれませんが「959もどき」でしかなかったとも言えるでしょう。よりによってフランクフルトでグルッペBでなく959として販売のお披露目をしたその年です。ボット教授の面目丸つぶれもいいところでしょう。が、彼をかばうわけでもなく、959はもともとスポーツカーレースを目指したホモロゲマシン。953というテストベッドとて、959とは似ても似つかぬ911ベースですから、失敗するのも致し方ないところ。
それでも、失敗の原因は車高を上げたことによるエンジンとアクセルシャフトの関係が悪化したことと言われています。953から同様の課題はあったものの、ジャッキーに言わせると優勝や入賞・完走については「ありゃまぐれだ」とのことで、レース中もずっと駆動系の不安を抱えて走っていたそうです。つまり、アクセルシャフトに角度が付きすぎて、応力集中がシビアになり、果ては破損、折損といったトラブルを招くということ。

1985年の全車リタイヤについて公式には岩にあたったとか、オイルラインが破損したなどとされていますが、個人的には前述の駆動系パッケージの未完が遠因となったことは否めない気がします。なにしろ、前述のボット教授の愚痴はちょうどこの年、パリ・ダカール直前のインタビューで口にされたものと記憶しています。また、ポルシェは伝統的にエンジニアよりも販売や宣伝の役員が実権を握っている会社ですから、959を無理やりにでもパリ・ダカールで勝たせることが強く下命されていたのも想像に難くありません。
が、翌年エントリーした959はこれでもかと強さを見せつけ、優勝、2位、6位というリザルトを手に入れました。公開されてはいませんが、どうやらエンジンの搭載位置、方式を刷新し、ギヤボックスやシャフトといった駆動系をカスタムしたようです。きちんと調べられた資料は存在せず、6台が製作された959パリ・ダカールは1台が個人の手元にあるほかすべてポルシェ博物館に所蔵されているので、詳細は不明としときましょう。

優勝したことで959はレースシーンでの宣伝という大役を全うし、予定台数をはるかに超える受注を実現。役目が終わったということで、959はファクトリーチームともどもパリ・ダカールはおろか、ラリーシーンから姿を消したのでした。ただし、同じ年に961と名前を変えてル・マン24時間レースに出場。主催者のACOによって、どういうわけかIMSA-GTXなるクラスが新設され、クラス優勝したものの、エントリーは961ただ1台のみ。もっとも、グループCカーに混じって総合7位(上位6台はすべてポルシェ)という立派な成績だったので、ボット教授をはじめとした開発陣はようやく胸をなでおろしたに違いありません。

その後は961でアメリカのIMSAに参戦したものの、オイルラインの破損から炎上、リタイヤという苦い結果に。これでヴァイザッハのレース魂に火が付いたのでしょう。翌1987年、961は足まわりとボディに大幅なモディファイを受け、またエンジンもパワーアップされて再びル・マンに登場! ですが、持病ともいえる駆動系トラブルによりたびたびのピットイン作業に加え、最終的にはエンジンルームから火が出てリタイヤという惨憺たる結果に。これにはフルスポンサーだったロスマンズもガッカリしたことでしょう。
959はそのパフォーマンスや先進的技術の数々から、なかば神格化されて語られがちですが、パリ・ダカールでのヒストリーや、その後のレース活動などを振り返ってみると、いささか持ち上げすぎと言えなくもありません。ロードカーとしては究極の出来栄えだったとしても、レースの女神はそうたやすく微笑みかけない、てな具合でしょうか。