金城一紀の小説『映画篇』コミカライズされ3月30日に1巻が発売された。
原作は5本のショートストーリーで構成されている。
コミック1巻には「太陽がいっぱい」と次編の「ドラゴン怒りの鉄拳」の序盤を収録。
金城一紀には在日コリアン(三世)を主人公にした「GO」という小説も書いている。
自身も在日コリアンであり、それは『映画篇』にも反映されている。

『映画篇』の各タイトルは実在の映画の邦題をそのまま使っている。
最初の回想シーンで主人公と龍一(リョンイル)永花(ヨンファ)の3人が担任に呼び出され集まる。
もし映画「太陽がいっぱい」を知っている人はそのシーンで「もしやこの3人が……?」と思うのではないだろうか。

映画「太陽がいっぱい」とは貧乏な主人公トムが金持ちの友人フィリップとそのフィアンセと共に行動するうちにトムがフィリップに腹を立て殺害し、巧妙なトリックで金もフィアンセも手に入れようとするサスペンスだ。
う〜ん、ジョージ秋山の「銭ゲバ」のようだ。
というか僕は『映画篇』を読んでから気になって初めて映画「太陽がいっぱい」を観た。
どうやらすっごく有名らしい……。

さて、ところが『映画篇』の「太陽がいっぱい」はそういう恨みで殺したり奪ったりなんて話ではない。
確かに大人しい主人公と活発な龍一はトムとフィリップのように違う。

だけど映画の趣味はそっくりで、いつも大好きな映画の話で盛り上がっている。
ひとつ違うとすれば龍一が「主人公に父親がいない映画がいい」とやたら言うところぐらいだ。
そう、二人には父親が居ないという複雑な共通点もある。
お互い滅多に口にはしないが、聞いてほしい時はお前だけに話すぜ。
そんな親友だ。
まさに「太陽がいっぱい」とは真逆といってもいいほどの友情ストーリー。


なぜ作者はこのストーリーにこのタイトルを付けたのだろう?
アクション物大好きな二人がたまたまフランス映画の「太陽がいっぱい」を見るシーンは確かにある。
そして二人で「面白かった」「掘り出し物だ」と気に入っていたがそれだけでタイトルにするのは弱い。
それに龍一は「面白かったけどあのオチはねぇよ!」と憤慨していた。
僕も「太陽がいっぱい」では主人公の巧妙なトリックやピンチの連続にワクワクした。
しかしラスト5分の展開には「え、そんな偶然あるかぁ?」とガッカリした。
是非まだ未見の方には観ていただいてガッカリしてほしい。

でもラスト5分までは本当に大好き!

その後、映画に影響され小説家になるため周囲の抑圧にも負けず頑張る主人公。
父親候補の虐待のせいか心が荒み悪い連中と付き合うようになった龍一。
最後に同窓会で会った龍一はヤクザになっていた。
主人公も会社に慣れてしまい小説を書くのは「そのうち」に……。
やがて「そのうち」がいつなのか分からなくなってしまった。なんだか痛いほど分かる……
いつから僕らの人生はこんなクソみたいになってしまったんだろう。

そして大人になった二人は1度だけ電話を交わすが、それ以降龍一の消息は分からなくなってしまう。
その電話の後、主人公は古本屋で「太陽がいっぱい」の原作小説を購入。
本を読み終えた主人公は龍一と一緒に「太陽がいっぱい」を観た時を思い出す。
原作の小説「太陽がいっぱい」は映画と違い、龍一の望んだ結末だったのだ。

作者は主人公と龍一の関係を「太陽がいっぱい」の内容にひっかけたのではなく映画と原作の違いをクソみたいな現実と理想にリンクさせたんじゃないだろうか。
物語は自由だ。
主人公はそこに親友、龍一を助ける活路を見出す。
真逆の結末を。

小説では説明的になりすぎて省かれるような描写もさらりと描かれているのもコミックならでは。
民族学校の女子制服がチマチョゴリだったり、ちょっと悪そうな高校生が平日の映画館の前にいたり。
また龍一の顔が大人になるにつれ険しくなっているのがよく分かる。
朝まで映画の話をして朝やけを背に立ったり、同窓会を抜け出し別れる際に繁華街を背にする龍一。
反対側に立つ主人公の顔は明るく、逆行になる龍一の顔は暗くなっているのが二人の対比になっていてそんな龍一を見ると胸がきゅっとなる。
さらに小学生の頃に龍一が母親の男に対して割れたビンでメッタ刺しにする想像をするシーンは漫画のオリジナル。
普段は活発な龍一がこんな妄想をするのはかなり怖い!

『映画篇』2本目のストーリー「ドラゴン怒りの鉄拳」はサスペンスだ。
主人の不可解な自殺、紛失した重要書類。
また題材映画とは違う印象の話だなぁ。
コミックの1巻にはまだ物語冒頭の謎だけで「つづく」となっている。
これがどう「ドラゴン怒りの鉄拳」らしくなっていくのか楽しみだ!(渡りに船)