〈もしこんなメニューのレストランの支配人がいたなら、他のことはともかく制裁にかけては手の早いソ連当局にさっそく串刺しの刑にされていただろう〉

怖い怖い怖い怖い!
発言の主はクレーマー?大御所料理人?ソ連の権力者?
その正体は1977年にソビエト連邦からアメリカへ亡命したユダヤ系ロシア人、ピョートル・ワイリとアレクサンドル・ゲニスの二人だ。って、誰?

本書『亡命ロシア料理』は、亡命後に批評家ユニットとして文筆活動を開始した彼らの共著で、1987年に刊行された料理エッセイ集。
その1996年に出ていた訳書が、新装版となって再び刊行された。

収録されているエッセイ45篇は、一篇あたり4、5ページ程度の短さ。冗談の次々と飛び出す気さくな語り口も相まって、いつでも気軽に楽しむことのできる一冊となっている。
冒頭に引用した串刺しのくだりも、もちろん冗談。「クコルヴィの木で絞首刑!」というエッセイでテーマとなるのは、ロシアに対する外国人の無知さ。そこでの、アメリカの料理ガイドに載っていた〈ロシア料理の逸品〉のデタラメさを皮肉るジョークに過ぎない、と思うのだけれど……。

〈おたまを持って鍋の前に立つとき、自分が世界の無秩序と闘う兵士の一人だという考えに熱くなれ。料理はある意味では最前線なのだ…〉
なんて、料理のことになると松岡修造ばりに炎上する著者たちなので、案外本気かも。

そんな一風変わったタイトルと書き手二人を擁する本書。何よりユニークなのが、全篇を貫く〈食道楽の見地から世界を見る〉という視点だ。これが料理だけでなく、政治や社会・風俗、文学などさまざまな対象について新しい見方を生み出す、刺激的な調味料となる。
たとえば、「魚の呼び声」でお題となるのは、食材としての魚の扱い方。
その模範例として持ち出すのが、アメリカの小説家メルヴィルの代表作『白鯨』だ。
〈メルヴィルはそもそも書くべきことをわきまえている。彼の小説で、魚が煮て食べられているのも、理由のないことではない。魚の柔らかな本質が必要としているのは、揚がりすぎてカリカリになったパン粉ではなく、煮るというデリケートな取扱いなのだ〉
と、文学に関心がない人にもわかりやすく、魚の最適な調理法と文豪の実力の一端を教えてくれる。

外国の政治も食べ物を切り口に眺めてみると、我がことのように感じられる。「本物の偽ウナギ」では、ソ連の政策が国民の生活にどのような影響を及ぼしたのか、著者が亡命する前の食糧事情から明らかにされる。

〈「四級肉」とは、余りにも長い間店頭に並んでいて恐竜のようにつるつるになった、ただの骨。そのスープには、雑種犬でさえ尻込みしたほどだ〉
〈食堂の人気メニュー「叩いて柔らかくしたナチュラル・ビーフステーキ」という名前で嘘ではないのは、最初の「叩いた」という部分だけだった〉
こんな嘘だらけの料理しか出ない国だったとしたら、亡命したくなる気持ちもわかるというもの。

もちろん、本書ではちゃんとしたロシア料理もたくさん紹介されている。
ただし、ボルシチやウォッカといったおなじみのメニューばかりではない。亡命したロシア人ならではのアイデア料理も登場するのが、タイトルの『亡命ロシア料理』たる由縁だ。
たとえば、〈自分たちの民族の素晴らしさにうっとりしてばかりでいいのだろうか?〉と、肉メインのロシアのスープと、野菜メインの西欧のスープを融合させた〈妥協スープ〉。

アメリカの〈ろくでもないダイエット熱〉に煽られた亡命ロシア人向けの、ロシア料理らしいボリューム感を残す、蟹のむき身とセロリ、アボガドにマヨネーズをあえたサラダ。
こうした料理におけるちょっとした工夫や好奇心が、文化の違う国同士や民族間のすれ違いを解決するヒントにもなるのでは?なんて思うようになれば、あなたも立派な食道楽視点の持ち主だ。

ここで食道楽な読者に朗報がひとつ。登場する料理はエッセイの中にレシピも書かれていて、自分でも作ろうと思えば作れる。そのレシピを紹介する文章がまた、猛烈に食欲をそそるのだからたまらない。
〈ぶ厚く切ったタンとタマネギをさっと炒め、ブイヨン二カップを加える。
その上に刻んだジャガイモ(大きさはタンをスライスしたものと同じくらい)を並べて火にかければ、三〇〜四〇分ですてきな焼き物ができ上がる〉

〈こんな焼き物には赤ワインがぴったりで、一方コールド・タンにはきゅんと冷やしたウォッカがなくてはお話にならない〉
(「母国語のように愛しいタン」より)

こんな文章を書かれたら、この本を読んで、実際に作って食べてみなければお話にならない。
(藤井勉)