AVを選ぶ際、単体物だろうと企画物だろうと「女優」が選別の大きな基準になるのは当然。しかし、時には「男優」の面子にも留意します。
「この男優はスゴいから女優のリアクションが激しくなる」「この女優とこの男優は相性がいい」とか、色々あるので。
セックスで相手とわかり合えたりなんかしない。八千人の女性とつながっても。森林原人『セックス幸福論』

こんな私みたいなウォッチャーからすると、昨今の“信用できる男優”としていの一番に挙がるのは「森林原人」の名前です。とにかく、パワーが凄い。そして、何回も行く。
そんな彼が、6月に初の著書を発表したらしい。タイトルは『偏差値78のAV男優が考える セックス幸福論』
彼は中学受験で麻布、栄光、筑駒、ラ・サール全てに合格しており、神童と呼ばれる少年時代を送ってきた男です。

その神童が、なぜアダルト業界入りしたのか? 東大受験に失敗し、ようやく入った大学ではプライドの残骸ゆえ馴染むことができず、「とことん自分を変えたい」「とことん自分を嫌いになってみたい」と、AV男優のバイトに応募した森林氏。その根底には「エロが好き」という衝動があったそうです。

セックスで相手の”本当の姿”が見れるなんて、ただの勘違い


いきなりどうかと思うカミングアウトですが、記者はたまに「本当に俺はセックスが好きなのだろうか?」と自問自答しています。ぶっちゃけ、今まで肉体的快楽が“ドカン!”と到来したことはなかった気がする。こんなこと言って、手練らに「それはお前がまだまだだから」と言われたら反論できないですが、みんなそんな気持ちのいいコトをやってるのか? と、どうしても疑念は晴れません。

とは言え、私も嫌いなわけじゃない。
自分なりにどこへ快楽を求めているかというと「己を受け入れてもらえた悦び」。このカタルシスを高みへ持っていくため、次第にプレイが過激になったり……。まぁ、私の話はこの辺でやめておきます。

同書を読むと、いきなり答えのようなものが記されてありました。森林氏曰く、セックスレスは、したいのにしてくれない“欲求不満タイプ”と、したくないのにしたがられている“義務強要タイプ”と、自分がどうすればいいのかわからなくなっている“自己不在ケース”に分かれるそう。“欲求不満タイプ”にフォーカスすると、性欲を満たしたくてしたがっている「性欲不満型」と、自分の価値を確かめたくてしたがっている「承認欲求不満型」に分類できるらしいです。
そして後者のようなタイプがいるからこそ、セックスレスになると「自分が必要とされているのか不安になる」という声が出現してしまう。
「セックスをするということは、相手があるというのが前提ですから、どちらも被選択側になるということで、程度の差はかなりありますが、自分の価値を値踏みされているような緊張と不安を強いられるということです」

だとするとセックスにはリスクが付き物だと考えられますが、だからこそ私は受け入れられた時に悦びを感じています。「奥底にある“本当の自分”を、俺には見せてくれた!」的な。
しかし森林氏は、このカタルシスを“勘違い”だと言い切ります。彼自身「つい最近まで勘違いしてた」と述べていますが、現在では以下のような見解に辿り着いたらしい。
「普段は教師や弁護士など堅い職業に就いている人が、セックス中に大胆に乱れる姿を見てこっちが本当の姿なんだと思ってしまうことがあります」
「いわゆる昼の顔と言われる姿が、仮面を被っているわけでも、夜の顔が本当の姿というわけでもなく、印象的なセックスの最中の一面だけを取り上げてその人の本当の姿だというのは違うと思います。
人間はどんな人でも多面性を持っています。(中略)セックスで見られるのはその人の普段見られない一面ではありますが、セックスしてもわからないことはいっぱいあります」
言われてみれば、確かに。私は、袋小路に迷い込んでしまいました。

セックスで得る悦びの正体は、一体何なのか?


しかし、森林氏は「セックス以上に強烈な悦びはない」と断言します。果たして、セックスの何がそんなにいいのか? 結論へ辿り着くには、彼自身のパーソナリティを確認する必要がある。森林氏は自身を“コンプレックスの塊”と評しており、かつては悩み悩んで「整形したい」「いっそなくなってしまいたい」とまで思っていたそうです。
「そんな僕がセックスで相手と溶け合う瞬間は、自分のすべてを相手が受け止めてくれているように思え、それが勘違いだとしても、僕は僕でいいんだと思い込めて、許せ、受け入れることができます」
どれだけ自分が嫌いでも、嫌なことや悩みがあったとしても、溶け合った瞬間にはどうでも良くなってしまう。
これを、森林氏は「絶対的な全肯定感」と呼んでいる。

実は、多くの人が経験しているのではないでしょうか? 中島らもの「恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。天の一番高い所からこの世を見おろすような一夜があって」という語録がありますが、もしかしたらそれに近いかもしれません。

セックスで相手とわかり合えたりなんかしない


森林氏は、“いいセックス”を以下のように定義します。
「セックスの悦びは、いかに相手の悦びに共鳴できるかがポイントだと思っています。相手の興奮が、自分の興奮になり、それによってより高まっていける」
それでいて彼は、この気持ちよさを「自分の思い込み、自己満足」とも言い切ります。
「どれだけ気持ち良いセックスをしたとしても、それはその瞬間だけのもので、しかも自分の中で起こったことでしかないのです」
どこまで行ってもわかり合えないことに気付いたことで、彼はセックスに対して「すごく気が楽になった」と語っています。


この域にまで達するにはかなりの逡巡や場数が必要になる気がしますが、わざわざ説明してもらえるとホッと肩の荷が下りたし、自分の持つギスギスが薄まっていく気がします。セックスに意味を込めすぎると、必要以上に振り回される局面も出てくるし。

セックスで、未来や過去に思いを馳せると相手とつながれない


ベテランAV男優の佐川銀次氏は、時にこんな発言をしていたそうです。
「恋愛のはじまりってほとんど性欲だろ。好きだの惚れただの人はいろいろ言うけど、その実は、ただやりたいだけだったりするんだよ。男も女もセックスを覚えた奴の『好き』は、『やりたい』と一緒だ」
佐川氏のような考えを、かつて私は否定していました。しかし、一周回って最近は同意しかできません。決して、開き直って“不純”になったわけじゃなくて。「性欲があるからこそ多少のことに目をつむれる」というテンションは多くの人が経験しているだろうし、性欲が落ち着くと相手への本当の気持ちが見えてきたりもする。
森林氏は、「恋愛の入り口にあるのは性欲です」と断言します。自分の欲望と素直に向き合えば、絶対にその結論しかないと思う。だって、それ(性欲)は本能なのだから。

御大・代々木忠監督は、確信をもってこう言います。「元来、人間は“人とつながりたい”という思いを持っている」。本能から生まれるこの感情のその先にあるのが「愛」で、「愛」とは瞬間的な心の状態のことを指します。
「感じるのはたった今この瞬間だけです。過去や未来ではありません。(中略)今この瞬間に心があることが重要で、先を見たり過去に縛られたり、ましてや違う相手のことを考えていると、相手とちゃんとつながることができません」
先々のことを考えて相手のことを手放すまいとするのは、「愛」ではなく「執着」。今この瞬間に心がない「執着」は別れにつながります。

セックスに余計な意味を込めると「愛」じゃなくなったり、後々に落胆したりもするかもしれない。しかし同書を読むと、セックスが物凄くピュアなものだと再確認もできました。
この、ある種の“確信”と“諦め”さえ持てれば、心の底から幸せになれる気がする。でも、俺にそれができるのだろうか……。

森林氏による「僕はセックスに楽観的に全肯定派です」という一言が、眩しすぎます。
(寺西ジャジューカ)