2014年12月20日に公開され、初日二日間で148万人を動員するなど、社会現象とも言える大ヒットとなっている「映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!」
そして、12月13日に公開され、ぴあ映画初日満足度ランキングで1位に輝き、現在も大ヒット上映中の「劇場版アイカツ!」


男児・女児から大人までの注目を集める2大作品でシナリオを手がけているのが脚本家の加藤陽一さん。両作品のTVシリーズでもシリーズ構成と脚本を担当し、「もんげー」「穏やかじゃない!」といった印象的なセリフも次々と生みだしています。
「流行を作る仕事に就きたい」という夢を抱いた少年は、いかにしてそれを実現させたのか? アニメ界の新たなヒットメーカーの歩みに迫るロングインタビュー。全3回の第1回です。

──脚本を担当されている「劇場版アイカツ!」と「映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!」の両作品が同じ月に公開されるのは、すごいことですね。
加藤 人生ってこんなことがあるのかという感じですね。
「アイカツ!」も「妖怪ウォッチ」も、いつか劇場版のシナリオを書くことがあるかもしれないと薄々は思っていたんですけど、両方ともTVシリーズがヒットして、劇場版も同時期に公開というのは……。興行的なライバル作になってしまったかという思いがありつつも、両作品の勢いを感じるという意味では素直に嬉しいです。
──アイカツ!」と「妖怪ウォッチ」のTVシリーズでは、各エピソードの脚本の他に、「シリーズ構成」という役職も務められています。こちらは、どのような役割なのか、簡単にうかがえますか?
加藤 脚本は、キャラクターの台詞と動きや芝居などが書かれていて、その後に映像を作っていく作業の土台となるものです。それを書くのが「脚本」の仕事ですね。一方、「シリーズ構成」には、大きく分けて二つの仕事があります。
一つ目は、その名の通り、何本ものエピソードが連なるテレビアニメのシリーズを構成する仕事。第何話をどんな話にするか、シリーズ全体をどう見せていくのかなどを考えます。二つ目は、チーフライターとしての仕事。テレビアニメの場合、複数の脚本家に参加して頂くことが多いんですね。その脚本を監修するのも、シリーズ構成の仕事になるんです。
──脚本の「監修」とは、具体的にどういうことをするのでしょうか?
加藤 例えば、大きなところではお話の展開やシーンの並べ方、キャラクターの感情の動きがこれでいいのか、芝居がうまくいっているか、諸々が視聴者にきちんと伝わるか、といったことのチェックや調整。
小さなところでは、台詞回しや語尾の調整もします。コメディーの場合、ギャグの調整や提案もしたり。面白いところをさらに膨らませて欲しいとオーダーしたりもします。
──作品の大筋から細部まで、幅広く関わる役割なのですね。では、この両作品に辿り着くまでの加藤さんの道のりをうかがっていきたいと思います。ご出身は東京とのことですが、加藤少年は、どんな子供だったのですか?
加藤 本やマンガを読むのはすごく好きでしたね。
家に「Dr.スランプ」と「ドラゴンボール」があって、よく読んでいました。子供時代の出来事で大きかったのは、中3の時、父の仕事の都合で1年間、アメリカのマサチューセッツ州で暮らしたこと。中2までに学んだ英語力のまま、いきなり現地の学校に放り込まれて。けっこうハードな日々を送っていました(笑)。
──現地の学校では、言葉も全然通じないですよね。
加藤 ええ。
その1年は、家に帰ってからマンガを読むのが楽しみでした(笑)。高橋留美子さんの「らんま1/2」や「めぞん一刻」も何度も読みましたね。今、脚本を書いていても、鳥山明さんや高橋留美子さんの影響は、何か残っている感じがします。
──日本には1年で帰ってきたのですか?
加藤 はい。高1で日本に帰ってきたら、音楽がすごく盛り上がってました。小室哲哉さんがどんどんヒットを作っていて。
テレビだと「電波少年」がブームになっていた頃ですね。
──90年代半ばですね。懐かしい。
加藤 その頃、きらびやかな世界に惹かれたというか。小室さんみたいに自分でいろいろなものを考えて、作って、流行らせていくことに、憧れを抱きました。高2ぐらいの時の文集に「流行を作る仕事に就きたい」といった内容の事を書いたのは覚えています。
──具体的に、どんなことをしたいというイメージはあったのですか?
加藤 音楽をやりたいと思った時期もあったんですけど、周りに今はプロになっているような上手い友達が何人もいたんですよ。彼らよりも下手な自分は音楽を仕事にするなんて絶対無理だと思って。あとゲームのプログラマーにも憧れましたが、数学が苦手なので途中で行き詰まったり。そんな中、「電波少年」みたいなテレビ番組を作れたらすごいなと、高2から高3ぐらいの時には思っていましたね。
──音楽をやりたいと思った時も、小室哲哉さんのステージ上の姿に憧れるというよりは、ムーブメントの中心にいて、自分発信で何か生み出すことに惹かれていたわけですね。
加藤 狙ってものを作って、それを流行らせていく感じに憧れたというか。かっこいいなと思ったことを覚えています。
──例えば、「何となく自分が好きなファッションが流行る」とかではなくて、「今求められているものはこれだ!」というものを狙いすまして作り、流行らせたいと?
加藤 そうですね。「俺はこうなんだよ!」と自分の色を世間に打ち出したいということではなくて。考えてものを作って、それが大勢の人に受け入れられることに憧れがあったんです。
──今でも、それが達成できると嬉しいですか?
加藤 はい。今、お話ししながら、その時期に考えていたことは、やっぱり今の自分と繋がっているんだなと思いました。

「ズームイン朝」を通して、マスを相手にすることの意味を理解

──あまりアニメの話が出てきませんね。アニメはあまり観なかったのですか?
加藤 普通に好きで観ていました。アメリカにいた時も、アメリカのアニメを観ていました。向こうのアニメは言葉がなくてもわかるものが多いので。
──話し相手のいない学校が終わった後の楽しみだったのですね……。
加藤 ええ(笑)。「トムとジェリー」とか、「ルーニー・テューンズ」(ワーナー・ブラザーズ製作のアニメシリーズ)の「ロードランナー」も好きでした。動きだけでも楽しいというアメリカアニメの要素は、「妖怪ウォッチ」にも入っていますね。それで、日本に帰ってきたら、ゲームですが「ときメモ(ときめきメモリアル)」が流行っていて。
──これまた懐かしい(笑)。恋愛シミュレーションゲームの大ヒット作ですね。
加藤 アメリカでは、お小遣いの使い道がなかったので、けっこうお金が貯まっていて(笑)。プレステと「ときメモ」のソフトをすぐに買っちゃいました。一時期、アメリカ時代の鬱憤を晴らすかのように、ゲームなどのエンタメにお金を使ってましたね。ちょうど、その頃に「エヴァ(新世紀エヴァンゲリオン)」が放送されていて、それをきっかけにテレビアニメを観ることが増えました。だから、アニメに関しては、すごくマニアというわけではなかったと思います。
──当時は、「流行を作る」という夢の実現手段として、アニメという発想は無かった?
加藤 全然なかったです。大学に入る時は、テレビ関係に進みたいと考えていました。
──大学在学中に放送作家デビューされたそうですが、どのような経緯で?
加藤 大学を卒業してテレビ局に受かったとしても、制作現場に配属されない可能性もあるじゃないですか。だったら、学生の時から業界に潜り込もうと思って、伝手がありそうな放送研究会に入りました。実際に伝手があって、最初にラジオのニッポン放送でバイトをすることになり、番組制作の現場を見ていく中、放送作家って面白そうなと思ったんです。
──どこに魅力を感じたのですか。
加藤 番組で何をするかを考えるという仕事そのものと、ラジオ・テレビ・イベントなど何でも幅広くできることです。それで「放送作家になりたい」と言っていたら拾ってもらえたのが最初ですね。
──放送作家として、最初に仕事をした番組は?
加藤 一番最初はFMヨコハマの帯番組のワンコーナーでした。駆け出しの頃からずっとやらせてもらっていたのは、ニッポン放送の「赤坂泰彦のサタデーリクエストバトル」です。6年くらいやって、最終的にはチーフの作家になりました。
──ラジオ番組の放送作家も、リスナーの中での共通のムーブメントを作る仕事かなと思います。
加藤 当時は、目の前の原稿を書くのに必死で、「もっと上手く書きたい」とか「もっと面白くしたい」という思いが最初にきていたと思うのですが、「流行るものを作りたい」みたいな気持ちはどこかにあったと思います。当時、ニッポン放送の方が仰っていた「内向きの企画をやっても世の中には広がらないんだから、外に向いたものを考えろ」という言葉は、いまだに思い出しますね。
──「内向きの企画」とは?
加藤 番組の雰囲気や制作者の気持ちが内側を向いている企画。つまり「もともと興味を持っていない人を拾えない企画」ということだと思います。同じ頃、日本テレビの「ズームイン!!朝!」でもバイトを始めたのですが、オンエア後の反省会で行われる総合演出のダメ出しも勉強になりました。それを自分の知識にして、ニッポン放送では作家としてその知識を使ってました。
──どういった知識を得ることができたのですか?
加藤 何が視聴者に親切で、なにが不親切なのか。どう作れば親切になるのか。どういう順番で伝えると面白くなり、視聴者に響くのかとか。「このニュースを聞いたら、誰もが絶対このことが気になるんだから、そこは書かないとダメだ」みたいなことをずっと考えながら書いていました。20代後半までそれを続けていたので、今は観ている人がどう受け取るのかが感覚的に分かります。「ズームイン!!朝!」を通して、「マス(大勢の人)を相手にしてモノを作るのって、こういうことなんだ」ということを理解できた気がします。
──「ズームイン!!朝!」でバイトをしていたのも、大学時代ですか?
加藤 最初はバイトでしたが、後番組の「ズームイン!!SUPER」の時に正式な作家として雇ってもらえました。
──では、そのまま自然にプロの放送作家へ移行した形ですか?
加藤 そうですね。最初の頃は日本テレビのニュース番組「きょうの出来事」の特集コーナーとか。その後はNHKで「紅白歌合戦」やクイズ番組をやらせて頂いたり。テレビ・ラジオの色々な番組を担当しました。放送研究会に入った頃から、「学生のうちに業界に潜り込んで、食えるようになったら大学は辞めよう。ダメだったら就職しよう」と思っていたんです。食えるようになったので、大学は中退しました。Wikipediaだと「立教大学卒業」になっていた気がしますけど、本当は中退なんですよ(笑)。

「ミラクル☆トレイン」の舞台が吹っ切れるきっかけに

──その後、放送作家から脚本家へと転身されたのは、どのような経緯があったのでしょうか。
加藤 当時、「ズームイン!!朝!」でご一緒していたディレクターが「他の番組も手伝うか?」と声をかけてくださって。ドラマやアニメを宣伝する特番の構成をやらせてもらうようになりました。そんな中で「名探偵コナン」や「犬夜叉」など、読売テレビのアニメの特番を何本も作らせて頂くうちに、「アニメの脚本家としてもニーズがあるのでは?」と言って頂けて。「まっすぐにいこう。」という作品の構成と脚本に声をかけて頂きました。
──その後、色々な作品の各話脚本を担当されていますが、特に印象深い作品はありますか?
加藤 どれも印象深いのですが、一つは「ヤッターマン」です。後に「宇宙兄弟」でもご一緒する読売テレビの永井(幸治)プロデューサーの方針で、「ゴールデンタイムで大人が笑えるものを作る」という方向でやっていて。けっこう自由に書かせてもらったら、それを楽しいと言ってもらえたんです。ノリノリで書いたものがゴールデンタイムで流れて、それを楽しいと言ってもらえるということを味わえたという意味で、すごく思い出深い作品です。
──脚本家デビュー後しばらくは、女性向けアニメのお仕事も多いですね。
加藤 「まっすぐにいこう。」でご一緒した、ゆめ太カンパニー(現TYOアニメーション)の 山口(聰)社長がコーエーさんのゲームをアニメ化した「遙かなる時空の中で-八葉抄-」に呼んでくれたんです。(女性向け作品での)コーエーさんの手法や、何がウケているのかがすごく勉強になりました。その知識は、同じコーエー原作の「ネオ アンジェリーク」や、その後にゆめ太カンパニーとやった「ミラクル☆トレイン"大江戸線へようこそ"」で生かせました。この「ミラクル☆トレイン」と、その後の「機動戦士ガンダムAGE」と「宇宙兄弟」は、「アイカツ!」以前の自分にとって、大きな影響のあった作品かもしれません。
──「ミラクル☆トレイン」は、大江戸線の駅を擬人化するという、かなりインパクトのある作品でした。
加藤 「ミラクル☆トレイン」では舞台を2本作っているんですけど、僕にとっては、それを書かせて頂いた経験がすごく今につながっているんですよね。主人公の六本木(史)を演じるKENNさんが歌う「YELL from 42.3.」というキャラソンがあって。その歌詞が六本木君のことをすごくよく表しているんです。だから、2本目の舞台の時、「最後にその歌が流れて、そこでめちゃくちゃ感動する舞台を作ろう」と思って、その歌詞からセリフを拾って散りばめながら最後に向けて盛り上げていくという舞台を作ったら、ファンにも喜んでもらえたんです。自分でも手ごたえを感じて。それは結局、「アイカツ!」でやってることなんですよ。例えば、1年目の最終回の50話とか。
──「カレンダーガール」が流れる中の最終回は、何回観ても泣けます。
加藤 舞台でやったのと似た手法をアニメでもやれるかなと。それくらい良い経験だったんです。ファンの方もすごく優しかったし。当時、「これからどうしようか」と悩んでいた頃だったのですが、自分で考えてやったことが支持して頂けて、吹っ切れたきっかけにもなったし、今につながるテクニックを作れた場としても、大きかったです。
(丸本大輔)

2に続く