■初めてF1チーム代表になった日本人
世界最高峰の自動車レース、F1。その門戸は著しく狭い。
2026年シーズンに参戦するのは11チームで、各チームが2台ずつマシンを走らせる。つまり、レギュラー・ドライバーの座は世界でわずか22人分しかない。2020年に日本人として初めて国際自動車連盟(FIA)の最優秀新人賞に選ばれた角田裕毅でさえ、そのシートを失い、2026年のシーズンを戦う日本人ドライバーはいない。
しかし、11チームを率いる代表の中に、ただひとり日本人がいる。「TGRハースF1」の小松礼雄(こまつ・あやお)代表だ。
小松は高校卒業後、18歳で単身渡英。ラフバラー大学で車両ダイナミクスと制御の博士号を取得し、エンジニアとしてF1の世界に入り、2024年に日本資本ではないF1チームで日本人初となる代表に就いた。
世界で11人しかいないポストに上り詰めた人物と聞けば、幼い頃から理数系の才能に恵まれたエリートを想像するかもしれない。ところが、小松の出発点は正反対だった。
「数学や物理は偏差値40にも届きませんでした。具体的には35でしたね」
高校時代、数学の偏差値は35。一方、国語は75で「物書きになれるかな」と考えていた少年だった。
「数学はまったくダメでしたが、国語は全く勉強しなくても、偏差値72や75くらいありました。全国模試でも余裕でトップ10に入れるほどでした。自分にはその才能があるから、将来は物書きになると思っていました。当時の私は『才能がすべて』だと信じ、才能のない人間がいくら努力しても絶対に無理だと考えていました」
そんな小松に決定的な影響を与えたのが、中学時代にテレビで出会ったF1だった。
■“F1レーサー”を目指さなかったワケ
もっとも、テレビの中のF1に心を奪われる前から、小松少年は無類のバイク好きだった。高校時代はカワサキの中型バイクZ400FX(通称“フェックス”)を乗り回し、バイク店でもアルバイトをしていた。ちょっとした縁もあった。
「隣の中学とはよく喧嘩をしていました。その中学校で同学年にいたのが阿部典史、のちの『ノリック』です」
阿部はのちに、オートバイにおけるF1にあたるロードレース世界選手権(現在のMotoGPの前身)で戦う日本人ライダーになる。17歳で国内最高峰クラスの王者となり、翌1994年、18歳で鈴鹿の世界戦にスポット参戦。世界王者たちを従えて先頭を走り、残り3周で転倒するまで日本中を沸かせた。
世界の舞台での勝利は通算3回。海外でも「ノリック」の愛称で親しまれたが、2007年10月、川崎市の路上でトラックと衝突し、32歳で亡くなっている。告別式には3000人を超える人が詰めかけた。
もっとも当時の阿部は、まだ地元の噂の的でしかない。それでも小松は、自分にその才能がないことを早くから痛感していた。
「普通、子供がレースを見たら『ドライバーになりたい』と思うはず。なぜ私は『マシンを作りたい』と思ったのか。自分でバイクに乗っていて、下手なのがわかっていたからです」
乗り手としての自分を見切り、「作る側」に回る。エンジニアの道を選ぶ原点は、この頃すでに芽生えていた。
■「英語を聞き取るだけで精いっぱい」
1994年、高校卒業と同時に小松は単身イギリスへ渡る。18歳、英語はほとんど話せない。なぜ、海外で学ぶことを選んだのだろうか。
「おそらく、ベートーヴェン研究者だった父の影響だと思うのですが、世界に出て通用する仕事がしたい。純粋な実力勝負の世界に行きたい。それが最大の動機でした」
渡英資金の内訳を尋ねると、答えは実に地に足のついたものだった。世田谷区や東京都の留学生支援資金などを活用し、残りはアルバイトの貯金だった。
バイト先は自由が丘のメキシコ料理店。
渡英直後、小松は英語学校で思わぬ幸運に恵まれる。本来は初級クラスに入るはずが、定員オーバーのため中級クラスに回された。周囲はスイスから来た銀行員など、流暢に英語を操る猛者ばかり。
「もし、日本人が多い初級クラスに入っていたら、おそらく語学力は全く伸びなかったと思います」――結果的にこの事故が、語学力を一気に押し上げた。
■「人の5倍かかるなら5倍勉強するだけ」
だが、本当の試練は大学進学後に訪れる。少人数のファウンデーションコース(大学予備校)から一転、大学1年では120人の大講堂で授業を受けることに。
「当時の大学には留学生がほとんどいませんでした。120人の大講堂で、外国人はおそらく3人程度。もう危機的状況でしたね」
教授の言葉を聞き取ろうとしているうちに授業はどんどん先へ進む。
「分からないからといって、手を挙げて授業を止めるわけにはいきません。英語を聞き取るだけで精いっぱなのに、内容もまったく理解できない。本当に死に物狂いでした」
同居していた友人は、勉強せずとも頭がいいタイプだった。過去問をひとつ解くだけで、あとは何もしない。
「彼は頭が良いので、一問解くだけですべての本質を理解してしまうんです。私のように本質をすぐに見抜けない人間は、パターンを学習するしかありません。何問も例題を解き続けて、ようやく『こういうことか』とぼんやり見えてくる。理解するまでに、少なくとも5倍、下手をすれば10倍の時間がかかりました」
友人との差を突きつけられても、小松の中に選択肢はなかった。
「私はF1をやるためにイギリスへ行ったのです。数学や物理が分からないからと落ち込んでいる暇はありません。じゃあどうするのか。
■苦手だった数学を克服
転機は大学2年を終えた後の実習だった。100社ほど応募して面接に呼ばれたのはわずか2社。そのうちの1社、ロータス・エンジニアリングでマシンのダイナミクスの部署に配属される。
「クルマの動きを理解するためには、シミュレーションモデル、つまり数式モデルを作らなければなりません。そこで数学とクルマが結びついて、圧倒的に面白くなったんです」
1年生の頃はあれほど嫌いだったプログラミングが、好きな対象と結びついた瞬間に姿を変えた。意味の分からなかった「ラプラス変換」も、ある時ふと腑に落ちる。
「それまで嫌いだった数学が、自然を理解するための『言語』でしかないと気がついたのです」
数学は苦役ではなくなった。最終学年の卒業制作では、用意されたリストに興味の持てるテーマがなく、教授に直談判して独自のテーマを認めてもらう。クルマのモデルをゼロから自作し、実証データと突き合わせて検証まで行う、学部生としては異例の規模のプロジェクトだった。
「誰かが作ったものを流用するのではなく、自分でゼロから作るからこそ、すべての構造が理解できます」
答えが用意された穴埋め式ではなく、目的だけを与えられ、そこに至る道筋を自分でデザインする。その過程にこそ学びがあるという確信は、20代前半のこの実習で形づくられた。
■“最下位チーム”を託された代表へ
大学院修了後の2003年、小松はB・A・Rホンダにビークルダイナミシストとして加わり、キャリアの第一歩を刻む。同時期、史上7人目の日本人F1ドライバー佐藤琢磨が在籍していた。佐藤はその後、インディ500を二度制覇。日本人としてもっとも成功したドライバーのひとりである。
ここでタイヤやダイナミクスのエンジニアとしての実績を積み、2006年にルノーF1へ移籍。ミシュランからの評価を経て、2011年にはレースエンジニアとしてヴィタリー・ペトロフを担当。2012年にチームがロータスへ改称されると、才能はあるが荒れたドライバーとして知られたロマン・グロージャンのレースエンジニアを任される。
度重なるクラッシュや不祥事を起こしていたグロージャンを地道に支え、エンジニアとしてF1界でその名を知られるようになった。
2016年、グロージャンとともにチーフエンジニアとしてハースF1へ移籍。そして2024年1月、前任のチーム代表ギュンター・シュタイナーの退任を受け、小松は48歳でチーム代表に就任する。こうして前年ランキング最下位に沈んでいたチームの立て直しを託された。
70年を超えるF1の歴史のなかで、日本資本ではないチームの代表を日本人が務めるのは初めてのことだった。就任からわずか開幕第2戦でポイント獲得と、その手腕はすぐに結果として表れ始めていた。
■「トヨタに良いイメージはなかった」
代表就任からほどなく、小松の元にトヨタのモータースポーツ活動を担うTOYOTA GAZOO Racing(TGR)側から提携の打診が入る。トヨタは2009年限りでF1から撤退し、現在も自前のチームで参戦しているわけではない。では、なぜハースに声をかけたのか。
当時、TGRはイギリスのF1チームであるマクラーレンと協力関係にあった。小松の頭に浮かんだのは単純な疑問だった。
「すでにマクラーレンと一緒にやっているのに、なぜうち(ハース)に声をかけるのか」
率直にぶつけた問いへのTGR側の答えは、思いがけないものだった。マクラーレンは「なかなか人を育てない」、「スポンサーとしか扱ってくれない」という。つまりトヨタ側が技術提携を目的としていたが、それが叶うことはなかった。
「それを聞いて『それなら一緒にやれる』と思いました。我々が求めているものと完全に一致していたからです。単なる資金提供のスポンサーではなく、技術的に協力し合える真のパートナーを求めていましたから」
ただし「当時の私は、はっきり言ってトヨタに良いイメージを持っていませんでした。魅力的なクルマは一つもなかったので」。さらに、かつてのトヨタF1についても「湯水のように資金を使うだけで、何がやりたいのか分からない。悪い意味で『単なる大企業』でしかなかった」と手厳しい。
だからこそ、条件を出した。「ぜひ(豊田)章男さんに会わせていただけませんか」。豊田会長も「業務提携する前に会ってみたい」と応じ、2024年6月、東京での面談が実現する。
■対面して感じた“豊田章男の後悔”
そして小松はこの時、トヨタのF1参戦、撤退についても「日本のメーカーは行ったり来たりしている、そういうことは本当にやめてほしい」と直言した。
1時間の面談で、豊田会長は自らの言葉で、かつてのF1撤退の経緯についても答えてくれた。就任直後の社長として下さざるを得なかった苦渋の決断。そして、それによって多くの若者の道を断ってしまったという、消えない自責の念だった。
「章男さんはあの困難な時期に社長に就任されました。当時のトヨタの経営状態を鑑みれば、撤退は社長として下さざるを得ない決断だったそうです。それは本当に苦渋の決断だったようです。若者たちの道を断ってしまったという重責、あるいは後悔のような強い思いがあった。それ以来ずっと『若い人たちの夢を断ち切ってしまった』という自責の念を抱き続けていらっしゃいました」
■才能のない分野だから頂点に立てた
物書きになるはずだった少年は、なぜ数学も、クルマの運転すらも「才能がない」分野で頂点を目指すことになったのか。小松自身の分析は明快だ。
「もしF1の道に進まず、そのまま物書きになっていたら、最悪な人間になっていたと思います。『自分には才能があるから書けるんだ』と、うぬぼれた人間になっていたでしょうね」
父からずっと言われ続けた「努力に勝る天才なし」という言葉を、小松は長らく信じなかった。頭のいい父が言っても説得力がないと反発していたからだ。だが、才能のない分野で努力を積み重ねた末に見えた景色は、その言葉を裏付けるものだった。
「たまたま『才能がない分野』を好きになって、本当に良かったと思っています」
偏差値35の少年が世界最高峰の自動車レースの代表であるF1の代表になれたのは、才能があったからではない。才能がなかったからこそ、諦めるという選択肢を持たずに済んだのだ。国語の偏差値75という「才能」に守られていたなら、人の5倍を積み上げる理由など、どこにもなかった。
物書きになるかもしれなかった少年を、F1チームの代表たらしめたのは、その才能のなさだった。
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松永 裕司(まつなが・ゆうじ)
ニールセン スポーツ ジャパン代表
1965年東京都生まれ。1990年立教大学文学部英米文学科卒業、学習研究社入社。ニューヨーク大学、ニューヨーク市立大学でジャーナリズムを履修。CNNアトランタ本社、マイクロソフト「MSN毎日インタラクティブ」、東京マラソン事務局広報ディレクター、電通スポーツパートナーズ企画開発部長、NTTドコモ・ビジネス戦略担当部長、Stats Perform Japan Vice Presidentなどを歴任し、2024年11月より現職。専門はスポーツマーケティング、DXコンサルティング。
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(ニールセン スポーツ ジャパン代表 松永 裕司)

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