トヨタは2009年、F1から撤退し、豊田章男氏は「自分が社長でいる限り、F1復帰はない」と語った。ところが2024年、前年最下位だった米国資本の小さなF1チーム「ハース」と提携。
2026年には、F1チーム名に「トヨタ」の名が戻った。ハース代表の小松礼雄さんは、かつてトヨタ車を「魅力がない」と酷評していた。それなのに、なぜ2人は手を組んだのか。スポーツマーケティング会社・ニールセンスポーツジャパン代表の松永裕司さんが小松さんに聞いた――。(後編)
■「社長でいる限りF1復帰はない」はずだった
2009年11月4日、トヨタ自動車は記者会見を開き、F1からの撤退を発表した。世界最高峰の自動車レースに参戦して8年。1000億円規模ともいわれる年間予算を投じながら、一度も優勝できないままの幕引きだった。
リーマン・ショック後の業績悪化のなか、就任1年目の社長・豊田章男が下した苦渋の決断だった。豊田はその後、「自分が社長でいる限り、F1復帰はない」と繰り返し公言してきた。
それから15年。2024年10月、トヨタは突然、F1への回帰を発表する。しかも自前のチームを立ち上げるのではなく、あるチームとの提携という形だった。
相手は米国資本の「ハース」。全10チームの中で最も小さく、スタッフ約400人は上位チームの3分の1に過ぎない。前年のランキングは最下位。世界販売台数1000万台を超える巨人が手を組む相手としては、あまりに意外な選択だった。
トヨタには他の選択肢もあった。名門マクラーレンとはすでに協力関係があり、トヨタ育成出身のドライバーも送り込んでいた。それでもトヨタは、ハースを選んだ。
鍵を握るのが、このチームを率いる一人の日本人である。TGRハースF1チーム代表・小松礼雄(こまつ・あやお)。F1で唯一の日本人チーム代表であり、就任1年目に最下位のチームをランキング7位へ押し上げた男だ。TGRとは、トヨタのモータースポーツ部門「TOYOTA GAZOO Racing」の略称である。
意外なことに、小松は「トヨタは堅苦しくて、魅力のない会社だと思っていた」と公言してはばからない。

「悪いけれど、魅力的な車は一つもありませんでした。大昔のセリカやカローラにあったような良さが今のラインナップにはなく、何の魅力も感じませんでした」
トヨタを評価していなかった男に、なぜトヨタは自社の名を冠したチームを委ねたのか。その答えは、2024年6月に東京で実現した、豊田会長との1時間の初会談と、二人のキャリアにあった。
■ドアが開いた瞬間に「一発でわかった」
小松は面談の瞬間を、今も鮮明に覚えているという。東京の事務所のドアが開き、豊田会長が笑顔で迎えた、その一瞬。
「もうなんか一発で『この人となら一緒にできる』っていうのが、その瞬間にわかったんですよ。その時の表情を今でも忘れません。顔つきや雰囲気、廊下の空気感まで、すべて鮮明に覚えています。面白いことに、言葉を交わす前の出来事です。あの笑顔と佇まい、要するにトップとしてのオーラです。それを直に感じた瞬間、それまで抱いていた『トヨタに対する反発心』が一瞬で吹き飛びました」
1時間ほどの面談で、二人は互いの大切にしていること、何を思って仕事をしているかを語り合った。そして終わった後、同席していたトヨタ側の担当者が漏らした一言が、この面談の異質さを物語っている。

「トヨタ側の担当者が『会長とお話しできてよかったですね。本当に楽しかったです』と仰ったんです。でも『会長と契約の話、一回もしていませんけどね』と笑い合いました」
契約の交渉に来たはずが、1時間、一度もビジネスの話が出なかった。それでも小松は「だが、それがいい」と振り返る。
和やかなだけの面談ではなかった。小松は初対面の会長に、これまで胸に溜め込んできた率直な疑問をぶつけている。日本の自動車メーカーが、F1への参戦と撤退を繰り返してきたことへの不満だった。
■初対面で「いい加減にしてほしい」と直言
ホンダにしてもトヨタにしても、参戦しては撤退する。その繰り返しです。『いい加減にしてほしい』と心底思っていましたので、その思いを直接伝えました。何のためにやっているのか。企業の利益のためだけなら、モータースポーツの文化など根付くわけがありません」
ホンダが1980年代に築いた伝説と、その後の撤退についても言及した。
1980年代後半、アイルトン・セナらを擁したホンダのエンジンは年間16戦15勝を挙げるなど、F1を席巻していた。「あれほど素晴らしい土壌があったのに、あっさり辞めてしまう。それを文化として積み上げていかないことに、私は強い憤りを感じていたのです」。
トヨタは2002年から2009年まで、パナソニック・トヨタ・レーシングとしてF1に挑戦。2005年の第18戦日本GPでは、ラルフ・シューマッハーがポールポジションを獲得し、母国グランプリを大いに盛り上げた。だが結局、表彰台の中央に立つことなく、撤退を余儀なくされた。
だからこそ、小松は面と向かって尋ねた。「どういう思いでF1をやられているんですか」。今回の提携についてもまた、ある程度の利益が出なければ手を引くつもりなのか、と。小松が引き合いに出したのはフェラーリだ。
F1の創設以来75年以上、一度も撤退することなく参戦し続けている唯一のチームである。
「文化を作る、人を育てるというのは長期戦です。
フェラーリのように、良い時も悪い時もずっとやり続けなければ、そんなものは作れません。そういう話をさせていただきました」
会長は気分を害することなく、正面から答えたという。「章男会長は、あの困難な時期に社長に就任されました」――2009年の就任直後、当時のリーマン・ショックの余波による経営状態を踏まえ撤退を決断せざるを得なかった苦渋の経緯と、若者の道を断ったという自責の念があるという。
■「正直に言ってくれるのは君くらいのものだ」
会長が心を開く理由は、この直言だけではなかった。その後も小松が別件で頼み事があり、直接会長のもとを訪ねたことがあった。その時に告げられた言葉を、小松は忘れていない。
「あなたの何が良いかって、こういう重要なことを、直接僕に頼みに来てくれるところだ」
小松にすれば当然の作法だった。「これほど大事なことなら、自分で直接足を運ぶのが筋でしょう」。そう返すと、会長はこう続けたという。
「いや、それでも僕の前に来て、ここまで正直に言ってくれるのは君くらいのものだ。みんな何かの思いがあっても、間に何人もの人を挟んでくる。僕のところに話が届く頃には、大元の思いが何だったのか、すっかり分からなくなっている」
大企業の頂点にいる会長には、幾重ものフィルターを通してしか声が届かない。
だが小松には、そうした立場のしがらみがなかった。
「私には組織特有のしがらみがありません。真剣に相談すべき時ほど、誤解されたくないし、フィルターもかけたくない。だからこそ直接、自分の目で見て頼みたいのです。頼みにくいことこそ、相手の目を見てお願いするべきだと思っています。重要なこと、避けたい問題から逃げてはいけません。最も難しい課題だからこそ、直接自分の言葉で、フェイス・トゥ・フェイスで伝えるべきなのです」
技術力でも、契約条件でもない。人としての誠実さと率直さこそが、二人の関係の土台になっていた。
■文化をつくるには「交流と継続」が不可欠
高校からラグビーを続けてきた小松は、イギリス留学時代に「本当のノーサイド」を知る。所属した弱小クラブにも芝生のグラウンドが5面あり、立派なクラブハウスがあった。試合後は敵味方なく泥で濁った湯船に浸かり、そのまま敷地のパブで朝方まで飲み明かす。
「それが『文化』です。日本のラグビーは試合単体で終わってしまう」
この経験は、小松がモータースポーツに懸ける思いにも直結している。単発のイベントや一度きりの好成績ではなく、勝っても負けてもプロセスを積み重ね続けることでしか、本当の文化は根付かない。
「日本にモータースポーツの文化を作るためには、交流と継続が必要です。ずっと続けて、人を育てなければ文化は生まれません。それが我々のできることだし、やらなければいけないこと。この思いを、2人は共有しているのです」
■エリートは「ホーム」でしか戦えなかった
なぜトヨタは、自社のF1チームを持つのではなく、ハースとの提携という形を選んだのか。その答えの核心にあるのが「人を育てる場」としてのF1への共通理解だった。
「アウェイである国際舞台、つまり日本というコンフォートゾーンから抜け出した場所で、真に戦える日本人を育てよう、という理想です」
コンフォートゾーンとは、勝手を知り尽くした「居心地のいい安全圏」のことだ。小松はここから一歩出ることを、人材育成の中心に据えている。
小松がこの重要性を痛感したエピソードがある。ある自動車会社の優秀な日本の社員が、イギリスのF1拠点に送り込まれて来た時のこと。まさに「鳴り物入り」だったエリートが、イギリスではまったくその力を発揮できずその上、体調を崩し帰国してしまった。しかし、後に日本の研究所で再会すると、その人物から圧倒的な実力を見せつけられ、小松は驚愕した。
「残念ながら、その人はホームでしか戦えなかった。でも、その実力の半分、いや6割でも発揮できていれば、イギリスでも十分に通用したはずです。それぐらい才能があった」
技術や能力そのものではなく、コンフォートゾーンの外でも自分を出し切れるマインドセットこそが重要なのだ、と小松は言う。
「どんな小さなことでもいいから、毎日1回は自分のコンフォートゾーンから抜け出してほしい。私はそう伝えています」
そのための最高の環境が、実力主義でフィードバックが速いF1という場だ。小松はこんな身近な話を挙げてくれた。
「今まで一人でラーメン屋に入れなかった人が、ある日思い切って一人で入ってみる。それだけでも、自分のコンフォートゾーンから一歩踏み出したことになるんです。どんなに小さくてもいい。その積み重ねが人を成長させるのです」
■「責任は取るから、直感で勝負してくれ」
この評価軸は、理念だけで終わらない。提携の一環として、トヨタの若手ドライバーがハースの旧型F1マシンで走行するテストが富士スピードウェイなどで行われている。そこで速さを見せたドライバーに対しても、小松は容赦なくハードルを上げてみせる。
「坪井翔(*1)も昨年、富士スピードウェイでF1マシンに乗り、すぐに速さを見せました。しかし私は『それは当たり前だ』と伝えました。日頃から富士を走り込んでいるからです。『真価が問われるのは、(イギリスの)シルバーストンのような未知の環境に放り込まれた時に、同じパフォーマンスを発揮できるかどうかだ』と。結果として、坪井はシルバーストンでも見事に速さを証明してくれました」
ホームで結果を出すことと、アウェイでも通用することは別物――その物差しを崩さないところに、小松の「人を育てる」哲学が表れている。
そして、その胆力を小松自身が“代表”として体現した場面もある。2025年シーズン開幕から苦しんだチームが、日本グランプリで新パーツを投入した時のことだ。通常の検証プロセスを踏む時間はなく、直感で決めるしかない状況だった。
「何もしないという選択肢はあり得ませんでした。そのリスクは私が背負う。責任はとるから、君たちは自分を信じて、直感で勝負してくれ。そういう場面で上がリスクを背負うことが、現場に対する安全弁になります。『プロセスを飛ばして直感でやれ。でも失敗は許さないぞ』と言われたら、現場はどう動けばいいのか。責任を引き受けることこそ、上の役目です」
(*1)日本最高峰スーパーフォーミュラ、スーパーGTのチャンピオン・ドライバー。
■2人をつないだ「現場主義」
失敗の責任を引き受ける覚悟があり、心理的安全性が担保されてこそ、現場は思い切った判断ができる。この考え方もまた、豊田会長が語る「人を育てる」哲学と深いところで重なっている。
「うちのチームが抜本的に変わるためには、本当にそういう力が必要でした」――小松にとっても、チーム内部の人員や開発力の不足を補う実利があった。それでも繰り返し語るのは、損得勘定より先にある「思い」の部分だった。
同席していたトヨタ側のスタッフが、二人の関係についてこう漏らしたことがあるという。「2人ともたった一人で戦ってきたからだよね」。小松はこの言葉を、互いに現場の最前線に立ち続けてきた者同士の感覚だと理解している。
「2人とも、ずっと現場を見て、現場で先頭に立ってやってきた人間だからです」
小松にとって、この「現場主義」の原点は、母から聞かされたある逸話にある。母は小松を産んでから35歳という年齢でファッションの世界に飛び込み、周囲の反対を押し切って、銀座のフラッグシップ店で成果を挙げた人だった。その母が繰り返し語っていたのが、JUNブランドで著名なデザイナー芦田淳氏についてのエピソードだった。
「芦田先生という方は、どれほどブランドが大きくなっても、常に自分の足で現場に来て、販売員一人ひとりと話をしていたそうです。お客さんがどんな顔で服を見ているか、自分の目で確かめる人だった、と」
■17年ぶりにトヨタがF1に帰ってきた
小松自身、その後さまざまなチームを渡り歩く中で、この教えを繰り返し実感することになる。
「他を見ていても、やはり組織としてうまくいっていない会社は、決まってトップが現場を見ていません」
チーム代表という立場になっても、豊田会長が「モリゾウ」として自らステアリングを握り現場に立ち続ける姿と、小松が母から学んだ経営者像は重なる。理屈ではなく、肌感覚で通じ合う部分があったのだろう。
2024年10月、TGRとハースは車両開発や人材育成での協力を軸とする複数年にわたる技術パートナーシップを締結。以来、トヨタの若手エンジニアやドライバーがF1の現場に加わる人材交流が積み重ねられてきた。
そして2025年12月、両者はさらに一歩踏み込む。TGRが、チーム名に自社の名を冠する「タイトルパートナー」に就任すると発表されたのだ。2026年シーズンからチーム名は「TGRハースF1チーム」に改称された。2009年にF1から撤退して以来、トヨタの名がチーム名に冠されるのは実に17年ぶりのことになる。
■これは「豊田章男のプロジェクト」
この提携には、確かな実利もある。小松自身がその構造をこう説明する。
「トヨタは高度なシミュレーター技術を持っていますが、我々にはそれがありません。逆に我々が持っているのは、F1という最前線の現場です。その高い技術を、我々のF1という現場に投入してもらう。そうすることで、互いに確かなシナジーが生まれています」
持たざる者同士が、互いの持っているものを持ち寄る――技術面での結びつきも、決して薄いものではない。だが小松にとって、この提携の本質は企業対企業の取引ではない。
「これは『トヨタの豊田章男』という個人の信念から生まれたプロジェクトです」
自社単独でトヨタF1チームを作るのではなく、既存のF1チームと提携し、一体となって取り組む――そこに会長の信念が表れているという。
「章男さんが『人を育てる文化を作るんだ』という信念に立ち返ったこと。それが何よりも大事なのです」
出会って間もない頃から、二人は不思議な感覚を共有していたと小松は振り返る。生まれた環境も歩んできたキャリアも、まるで交わることのなかった二人。それでも同じ事象を前にすると、感じることがそっくり同じだった。
「話すたびに『なぜここまで分かっていただけるのだろう』と驚かされます。打ち出の小槌のように、次々と共感し合える会話が生まれるんです。章男さんも私も、初対面の時から『もう10年くらいの付き合いでしたっけ?』『今回お会いするのが初めてでしたっけ?』と笑い合うほどでした」
■2人の関係は「逃げなかった言葉」から始まった
技術でも、資金でもなく、人を育てるという一点で深く共鳴した二人。トヨタという看板を背負いながらも、そこにあるのは一人の経営者と一人のチーム代表の、極めて個人的な信念のぶつかり合いだった。
小松が初対面の豊田章男会長にぶつけたのは、「参戦しては撤退する。いい加減にしてほしい」という積年の憤りだった。その問いに、会長は撤退を決めた自責の念で応えた。二人の関係は、褒め言葉ではなく、逃げなかった言葉から始まっている。
だからこの提携の成否は、表彰台に立った回数では測れない。ここで育った人間が10年後、20年後にどこで何をしているか。問われるのはそのときだ。
日本のモータースポーツに文化と伝統が根付くまで、何十年もかかるだろう。二人が始めたのは、自分たちが結果を見届けられるとは限らない仕事。それでもコンフォートゾーンの外へ一歩踏み出した。そこにこそ、この提携の本当の意味がある。

----------

松永 裕司(まつなが・ゆうじ)

​ニールセン スポーツ ジャパン代表

1965年東京都生まれ。1990年立教大学文学部英米文学科卒業、学習研究社入社。ニューヨーク大学、ニューヨーク市立大学でジャーナリズムを履修。CNNアトランタ本社、マイクロソフト「MSN毎日インタラクティブ」、東京マラソン事務局広報ディレクター、電通スポーツパートナーズ企画開発部長、NTTドコモ・ビジネス戦略担当部長、Stats Perform Japan Vice Presidentなどを歴任し、2024年11月より現職。専門はスポーツマーケティング、DXコンサルティング。

----------

(​ニールセン スポーツ ジャパン代表 松永 裕司)
編集部おすすめ