人生が変わったはずが…「W杯でブレイクし、大型移籍後に苦しんだ」スター選手5人

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ワールドカップは選手のキャリアを一変させる大会である。世界中が注目する舞台で活躍すれば、知名度や市場価値は一気に上昇する。

2026年大会でも、スイス代表ヨアン・マンザンビ、オランダ代表クリセンシオ・サマーフィル、ノルウェー代表アンドレアス・シェルデルップらが評価を高めた。



ただし、過去には、ワールドカップで世界的なスターとなりながら、その直後の移籍で苦しんだ選手も少なくなかった。今回は『sportsmole』から「W杯でブレイクし、大型移籍後に苦しんだスター選手5人」をご紹介する。



アルベルト・タランティーニ(アルゼンチン)



アルゼンチンが母国開催の1978年ワールドカップを制したことで、それまで南米以外では知られていなかった多くの選手が一躍スターとなった。左サイドバックのアルベルト・タランティーニもその一人だった。



豊富な運動量と激しい守備、長いカーリーヘアで強烈な印象を残したタランティーニは、大会終了後にイングランドのバーミンガム・シティへ加入。同じアルゼンチン代表のオズワルド・アルディレスとリカルド・ビジャがトッテナムへ移籍したこともあり、当時はアルゼンチン人選手への関心が高まっていた。



しかし、タランティーニの挑戦は長く続かなかった。バーミンガムでの成績は公式戦23試合1得点。プレースタイルや生活環境への適応に苦しみ、ピッチ内外で問題を起こした。結局、加入からわずか1年ほどでイングランドを離れ、1979年にはアルゼンチンのタジェレスへ復帰した。



エル=ハジ・ディウフ(セネガル)



2002年日韓ワールドカップで最大の驚きを生み出したチームの一つが、初出場でベスト8へ進出したセネガルだった。その攻撃を牽引したのが、エル=ハジ・ディウフである。



得点こそなかったものの、スピードとドリブル、予測不能なプレーで相手守備を混乱させ、大会ベストイレブンにも選出された。

開幕戦では前回大会王者のフランスを相手に活躍し、金星に貢献している。



その活躍を受け、リヴァプールはおよそ1500万ポンド(およそ30億円)を支払い、ディウフを獲得した。しかし、その判断はクラブ史に残る失敗の一つとして語られることになる。



リヴァプールでの成績は80試合6得点。期待された数字には遠く及ばず、徐々に得点よりも問題行動で注目を集めるようになった。相手サポーターへの唾吐き、度重なる規律違反、夜遊びを巡る報道などによって、チーム内での信頼も失っていった。



主将を務めていたスティーヴン・ジェラードも後年、マリオ・バロテッリとの比較について「バロテッリには敬意を持っているが、ディウフには一切ない」と厳しい言葉を残している。



ハメス・ロドリゲス(コロンビア)



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(C)Getty Images



2014年ブラジルワールドカップで、ハメス・ロドリゲス以上に鮮烈な印象を残した選手はほとんどいなかった。全5試合で得点を記録し、大会最多となる6ゴールをマーク。ウルグアイ戦で決めた胸トラップからのボレーは、大会史に残るスーパーゴールとして高く評価され、プスカシュ賞も受賞した。



大会後、レアル・マドリーはモナコから6400万ポンド(およそ130億円)でハメスを獲得した。加入初年度はカルロ・アンチェロッティ監督の下でリーグ戦29試合13得点を記録。華麗な左足と得点力を生かし、順調なスタートを切った。



ところが、監督交代によって状況は大きく変わる。ジネディーヌ・ジダン新監督は中盤をトニ・クロース、カゼミロ、ルカ・モドリッチで構成し、重要な試合ではイスコを優先することも多かった。守備や運動量を求められるシステムのなかで、ハメスの居場所は徐々に失われていった。



ワールドカップで世界最高の選手の一人と評価されたが、クラブでは自分の能力を最大限に発揮できる環境を最後まで見つけられなかった。



ロベルト・ヤルニ(クロアチア)



クロアチア代表が初出場の1998年フランスワールドカップで3位となった際、左サイドを支えたのがロベルト・ヤルニだった。



大会全7試合に出場し、豊富な運動量と強烈な左足を武器に躍動。ドイツとの準々決勝では、ペナルティーエリア外から先制ゴールを決め、3-0の勝利を引き寄せた。



そして大会後にはベティスを離れ、レアル・マドリーへ移籍することになるが、その過程は非常に複雑だった。当初はイングランドのコヴェントリー・シティが獲得したと報じられたものの、直後にレアル・マドリーへの移籍が決定。この混乱の真相は今も明らかになっていない。



レアルでは左ウイングバックとして公式戦36試合に出場し、3得点7アシストを記録した。決して何もできなかったわけではないが、ロベルト・カルロスとのポジション争いもあり、わずか1シーズンでクラブを退団している。



デニウソン(ブラジル)



1998年ワールドカップ当時、デニウソンはまだブラジル代表の絶対的な主力ではなかった。

それでも、ベンチから投入されると独特のステップとドリブルで流れを変え、2アシストを記録。21歳の若者は、世界でも屈指の将来性を持つウイングとして注目された。



大会終了後、ベティスは当時の世界最高額となる2600万ポンド(およそ52億円)を支払い、サンパウロからデニウソンを獲得した。



しかし彼は華麗なドリブルで観客を沸かせる一方、得点やアシストという結果にはなかなか結びつかなかった。さらに加入2年目にはベティスが2部へ降格。本人もフラメンゴへ期限付き移籍し、その後も膝の故障に悩まされた。



本人は後年、「自分にはあまりにも高い金額が支払われ、多くを期待された。若かったし、そのすべてに対応する準備ができていなかった」と振り返っている。



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※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。



筆者:石井彰(編集部)
画像提供:Getty Images

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