木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第29回:佐々木則夫評(3)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

明治大時代から別格だった木村和司の技術 「実は僕、アイツのフ...の画像はこちら >>
 佐々木則夫が明治大に入学してほどなく、同じ1年生ながら早くも頭角を現していたのが、木村和司だった。

「やっぱりプレーはうまいし、明治大にはそんなに有名な選手がいなかったし。そういう意味では、先輩たちも一目置いている傾向がありました」

 1年生にして「すぐにAチームに絡んでいました。僕らより早かったですから」という木村は、佐々木いわく「態度はデカかったですね」。それでも佐々木たちにしてみれば、「同期だったので、扱いづらいとか、そういうことは別になかった」。

 とはいえ、実際のところはと言えば、「アイツはいろんな代表に呼ばれていたんですよ。だから最初は、大学で練習する時間が少なかったんじゃないかなと思いますね」。

 木村は入学早々、さまざまな代表活動に参加していたため、大学を留守にすることが多かったのである。

「たとえば、B代表とか、大学選抜とか、そういうのがいろいろと順繰りにくるもんですから、なかなか大学で練習することがなかった。特に大学1年の前半は、そうでしたね」

 しかも、「そのうちA代表に絡むようになって、さらに大学でプレーすることがなくなっていきましたよね」の言葉どおり、木村は大学2年で日本代表(A代表)デビューを果たしている。

「だからもう本当に、和司個人の能力としては明治大に来てからっていうよりも、それはもう来る前からだと思いますけど、JFA(日本サッカー協会)の強化担当の人たちから、彼は逸材だっていう感じで目を向けられていました。

 A代表だけじゃなくて、その下の(年代別)代表で国際大会があったりとかっていうと、すぐにキャンプだなんだとずっと呼ばれていた。

だから大学1年のときから、かなり留守が多かったんじゃないですかね」

 それもそのはず、事実、木村の能力は際立っていたという。

「ボールを扱う技術というのは、だんだん(一緒に練習する)時間が長くなればなるほど、『スゲぇな』と思って、その存在感を知るわけです」

 そう語る佐々木にとって、とりわけ印象に残っているのは、木村が得意とするフェイントだ。

「エサをまいてグッて仕掛けるとか、そういうのはめっちゃうまかったですからね」。

 その技術を間近で見ることができる特権を得ていた佐々木は、「実は僕、アイツのフェイントを真似していました」という。

 帝京高時代はボランチだった佐々木が大学入学後、サイドバックへのコンバートを告げられたときのことだ。

 初めは右サイドバックをやっていた佐々木だったが、「オレ、和司のフェイントができるんで、左のほうが得意なんですけど......」と直訴して、左サイドバックへと移ったというのである。

 佐々木が言う「和司のフェイント」とは、一度ボールをまたいで相手の逆をとる一連の動作のこと。佐々木は「和司のプレーを見てて、『なんだ、これ、簡単じゃねぇか』と思いながら」、その技を自ら実践してみることにした。

「タイミングとか、スピードの変化が難しいんですけど......、でもね、足の動きはできないことはない。だから、『オレに左サイドバックやらせてもらえば、このフェイントで(相手を)抜いてみせるから』って言ったんです」

 木村のフェイントを研究し、どうにか自分のものにした佐々木。「だから僕は、和司のフェイントに引っかからないですよ。一瞬またいだら、パッと(後ろに)引けばいいんだから」という自信は、研究の成果である。

 ただし、この"フェイント対策"には致命的な弱点があった。

「でも、引くと、間合いが空いちゃうから、スピードの緩急でやられちゃうんだよね。その(フェイント)一発にはやられないけど、後ろに下がったことで間ができるんで、すぐにキュッと抜かれちゃう(苦笑)」

 佐々木いわく、木村は「足の出し方のタイミングが抜群なんですよ」。

 これまで一緒にプレーした選手のなかで、木村はトップクラスの才能を持っていたと認める佐々木は、こう言って舌を巻く。

「和司は研究して技術を身につけるとかっていうより、結構、本能的な要素を持っていますよね。器用なんですよ、とにかく」

(文中敬称略/つづく)◆佐々木則夫が振り返る明治大時代「全然面白くない4年間でした」>>

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。

1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

佐々木則夫(ささき・のりお)
1958年5月24日生まれ。山形県出身。帝京高、明治大を経て、大学卒業後に電電公社に入社。大宮アルディージャの前身となる電電関東(のちにNTT関東)でプレー。現役引退後、1996年からNTT関東(のちに大宮)の監督を務めた。2006年からなでしこジャパンのコーチ、U-17女子代表監督に就任。2007年からU-20女子代表の監督となり、翌年からはなでしこジャパンを指揮。2011年女子W杯では日本を世界の頂点に導いた。

その後、2012年ロンドン五輪でも銀メダル、2015年女子W杯でも準優勝という成績を収めた。現在は日本サッカー協会女子ナショナルチームダイレクターを務めている。

浅田真樹●取材・構成 text by Masaki Asada

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