木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第30回:佐々木則夫評(4)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

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 佐々木則夫は高校時代、全国高校サッカー選手権の大会優秀選手にも選ばれたMFだった。もともとはボランチが本職。だが、明治大に入ると、サイドバックをはじめ、「いろいろとやらされました。自分のポジションからは、だんだん外れていきましたね」と振り返る。

 その一方で、自分とは対照的に、前線でのびのびとプレーする同級生の木村和司については、「3年生までは、自分の好きなことだけをやっていた感じがあって、あまり守備をしないというか、そういう傾向は見られました」と述懐する。

 木村の技術は、確かに高い。だが、佐々木にとっては、一緒にプレーしていて、決して「やりやすいタイプではなかったです」という印象が強く残っている。

「『もっと早く(守備に)切り替えろ!』って言っても、ダメでしたからね。だから、うちの大学はバランスのいいチームになりきれなかったところがあったんじゃないかな」

 実際、佐々木が入学した当時の明治大は、関東大学リーグ2部の所属。大学2年時に一度は1部に昇格するも、わずか1年で2部に逆戻りし、そのまま卒業を迎えている。

 佐々木にはそうした苦い記憶があるからだろうか、木村とともにプレーした大学時代の印象的な試合について尋ねても、「う~ん」とうなって首をひねる。

「僕自身も、(帝京)高校で燃え尽き症候群になったっていうか、大学のときは気持ちが入ってなかったんだと思います。

(高校時代に)やりすぎたのか、なんかこうね......、(明治大では)流されながらやっていた感がある。だから意外とこう......、あまり記憶にないというか......、勝っても負けても、印象深い試合というのが出てこないんですよね」

 だが、そんな佐々木から見ても、自分たちが大学4年になったときには、木村にはっきりとした変化があったという。

「やっぱり自分の代(が最上級生)になって、田中喜生がキャプテンで、和司が副キャプテンだったと思うんですけど、そこで和司もすごくチームに対する意欲が生まれて、4年のときは本当、一生懸命やっていたんじゃないですか。なんとか結果を出そうよ、ってね。それまでは(試合でも)流していたと思いますけど(笑)」

 佐々木の言葉を借りれば、それ以前の木村も、「練習に対しては厳しい姿勢で取り組んでいたと思います」。

 どちらかと言えば、自分のことにしか興味がなかった天才肌の選手が、最上級生になり、副キャプテンにもなったことで、新たな意識が芽生えたのかもしれない。

「結構、フォアザチーム(の意識)も出てきたし、後輩に対しても厳しく言ってたし」

 そんな言葉で回想する佐々木が、当時の木村をこう評する。

「やっぱりサッカーが好きだったんでしょうね」

 思えば高校3年の冬、ユース代表候補の合宿で一緒になり、初めて同じピッチでプレーしたときから、佐々木は木村との力の差を感じていた。

「僕はユース代表候補にはなったけど、途中で外されていますから。和司は選ばれましたけど、僕は(公式なユース代表の)メンバーに選ばれてない。僕はその頃から見てきていますからね。

 これは本当に負け惜しみじゃなくて、もう帝京でやりきったな、みたいな気持ちもあったし、もうバーンアウトしている部分がありました。

そういうなかで、うまいヤツらとサッカーをやらせてもらっていると、『これはもう、いくら頑張っても無理だな』ってね」

 自ら、燃え尽き症候群だったと認める佐々木を横目に、木村は大学2年にして日本代表(A代表)に選ばれた。ふたりがユース代表候補として肩を並べてから、わずか2年余りのことである。

「なんか、まあ、(木村は自分にとって)憧れっていうか、誇りっていうか。もう大学1年の時間を一緒に過ごしているだけでも、もうそのぐらいのクラスの質があることはわかっていたんでね」

 そう語る佐々木が、諦観したように続ける。

「彼と僕とは別物っていう感覚が、(大学時代に)もうあった。だから、彼を抜いてやろうとか、そんな気はもう全然ない。そう思わせないぐらい、質が違っていたんで。選手としてのタイプが違うといえども、すべての資質が、もう我々が抜けるような相手じゃなかったし、同レベルになれるような相手じゃなかったんでね。

 だから、僕は意外に冷めていました。大学4年間で、彼を見れば見るほど、僕はもうプレーヤーとしての(今後も続けていく)イメージがだんだん薄れていきましたから」

 いわば、木村によってサッカー選手としての限界を突きつけられた佐々木は、明治大での4年間を自嘲気味に振り返る。

「楽しくなかったですよ。寮は汚いし、(寮の共通語は)広島弁だし。

僕らは守ってるばっかりで、練習もしない和司が脚光を浴びてね。全然面白くない4年間でした(笑)」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

佐々木則夫(ささき・のりお)
1958年5月24日生まれ。山形県出身。帝京高、明治大を経て、大学卒業後に電電公社に入社。大宮アルディージャの前身となる電電関東(のちにNTT関東)でプレー。現役引退後、1996年からNTT関東(のちに大宮)の監督を務めた。2006年からなでしこジャパンのコーチ、U-17女子代表監督に就任。2007年からU-20女子代表の監督となり、翌年からはなでしこジャパンを指揮。2011年女子W杯では日本を世界の頂点に導いた。その後、2012年ロンドン五輪でも銀メダル、2015年女子W杯でも準優勝という成績を収めた。現在は日本サッカー協会女子ナショナルチームダイレクターを務めている。

浅田真樹●取材・構成 text by Masaki Asada

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