流しのブルペンキャッチャー回顧録
第12回 寺原隼人(元ダイエーなど)

 その年のドラフト1位クラスの快腕、剛腕の全力投球をブルペンで捕球し、記事を書く。世界初の試みだと驚かれたり、褒めてもらったり......。

なかには「キャッチボールに毛が生えたぐらいの悪ふざけ」などと心ない中傷を受け、「悔しかったら、やってごらんよ」とやり返したこともあった。

 なんだかんだで20数年。雑誌『野球小僧』の名物企画「流しのブルペンキャッチャー」でボールを受けた投手は、気がつけば200人を超えた。そのなかから、プロの世界へ進み、"奮投"した投手も100人以上。大谷翔平ドジャース)や菊池雄星エンゼルス)ら、メジャーで看板選手になった強者(つわもの)もいる。

 そんな投手たちのなかから、夏の甲子園で印象深いピッチングを見せてくれた剛腕たちを振り返ってみたい。まずは、25年前の夏、「21世紀の怪物」と呼ばれたあの剛腕だ。

甲子園を震撼させた"21世紀の怪物"寺原隼人 158キロを叩...の画像はこちら >>

【真横からではボールが見えず】

 2001年6月。その日は、朝からアクシデント続きだった。日南学園(宮崎)・寺原隼人の取材で、早朝の飛行機に乗って宮崎へ向かうはずがが、私は一本の電話で起こされた。

「安倍さん、今どこにいるんすか?」

 同行する雑誌『野球小僧』の編集者の声には、明らかに怒気がこもっていた。時計を見ると、乗るはずだった便の出発時間まであと15分ほど......。そりゃ、怒るはずだ。

慌てて身支度を整え、3時間ほどあとの便で、ようやく宮崎に到着した。たしかその後、同行の編集者は一度も口をきいてくれなかったと思う。

 どこで聞きつけてきたのか、ある新聞社の宮崎支局の記者が寺原取材に同行することになっていた。いわゆる「相乗り」である。

 宮崎空港から日南学園野球部のグラウンドまで、車で1時間弱。新聞社の車に乗せてもらえるのは、こちらもありがたいのだが、「事件」はそこで起きた。

「飛行機一本遅れたんですから、急ぎましょうね!」

 意気込んだ記者さんの運転がすごかった。

「取材現場に急ぐのは慣れてますから!」

 日南までの峠道も、海沿いの細かいカーブが続く道も、ほとんどノンブレーキで突き進む。恐ろしいなんてもんじゃない。

「間に合いますから......」と、こちらが手綱を引こうとしても、「大丈夫ですよ、慣れてますから!」の一点張り。グラウンドに着いた時には、背中に嫌な汗をびっしょりとかいていた。

 寺原のピッチングは、すでに始まっていた。

当時、140キロどころか、すでに150キロを突破していると言われていた高校球界屈指の剛腕だった。建物の中には、4、5人が同時に投げられる立派なブルペンがあった。外から中をのぞくと、いちばん手前で、ガッシリしたユニフォーム姿の寺原が投げている。

 投手と捕手を真横から見る位置だった。寺原の指先を離れたボールが、しゃがんで構える捕手のミットに突き刺さる。ものすごい破裂音が聞こえてくるのに、肝心のボールが見えない。真横からなら、どんなに速いボールでも、定規で引いたような白い線ぐらいは見えるものだ。ところが、その「白線」すら見えなかった。

「見えないすね......。大丈夫っすか......」

 同行の編集者が、この日初めて口をきいてくれた。

 横から見えなくても、正面から見ればなんとかなるだろう......。妙に腹が据わっていたのは、車の中でさんざん怖い思いをしてきたせいだったのかもしれない。

【きれいなバックスピンの快速球】

 さて、ユニフォームに着替えて、ブルペンの寺原のもとへ向かう。取材する際は、誰が相手でも最初は必ず握手から始める。それを信条にしている。

 150キロの剛速球を投げ込むのだから、どんなゴツいヤツかと思ったら、笑顔がかわいい童顔だった。ちょっとホッとする。

 それからブルペンで向き合い、まずは立ち投げで10球。

「さあ、やろうか!」

 こちらからきっかけをつくれるのも、最初の笑顔があればこそ。この余裕があれば、全国屈指の剛速球も10キロぐらい遅く見える。

「はい、カモーン!」

 かけ声とともに投げ込まれた1球は、とてもではないが遅くなど見えなかった。そりゃそうだ。相手はもう、すっかり肩ができている。速い。そして、きれいなバックスピンの品のいいストレートだった。

剛速球というより、「快速球」だ。

「よう捕れるなぁ! 怖くないんですか?」

 うしろで見守っていた小川茂仁監督(当時)が、あきれたように笑う。そりゃそうだ。ついこの間、150キロラインを超してきたばかりのピッチャーなのだ。

 怖くて死にそうですよ......という意味も込めて、「大丈夫ですよ!」と返す。

 体感で145キロ前後のボールを5球ほど受けたところで、「あれっ」と思った。ボールが見える。横から見た時には「白い線」すら見えなかった快速球が、正面からだと見える。

 そこで思い出したのが、ついさっきの立ち投げだった。胸を早く見せてくれるピッチャーだな......と、ふと思ったのだ。

 これだ!

 体が少し早く開き、胸を早く見せてくれる。だから、ボールも見やすいんだ......。

そこからは、もうポンポンと捕球できた。

 回転軸に傾きを感じさせない、今風に言えば「ホップ成分」に満ちた球質。ミットを伏せるように受けると、悲鳴のようなカン高い捕球音がブルペンに響く。その捕球の衝撃と音の響きは、もうこたえられない。

 右打者の外へ、内へ。空気を切り裂くような快速球を30球ほど受け、そこからスライダーとカーブをおよそ10球。変化球については、小川監督も本人も「目下勉強中」とのことだった。

 そして、最後の1球。

「オレが一生忘れないような最高のストレート、お願い!」

 そうリクエストすると、構えたミットの真っ芯に、間違いなくこの日最速の1球を叩きつけてきた。

「ナイス、キャッチャー!」

 いつの間にブルペンの向こう側へ回ったのか、小川監督が寺原のうしろに立っていた。満面の笑みを浮かべ、頭の上で大きな丸をつくってくれた。

「ありがとうございます!」

「流しのブルペンキャッチャー」なんて、変なこと始めちゃったなぁ......。

いつもそんなことを考えていたが、「やっていてよかった!」と初めて思えた瞬間だった。あの「ナイスキャッチャー!」がなかったら、この企画も、きっと2、3年でおしまいになっていただろう。

【「まだ手放したくない」母の叫び】

 寺原が練習試合で155キロをマークしたのは、そのわずか数日後のことだった。

 そして、その夏の甲子園。非公式ながら叩き出した「158キロ」(※)の衝撃は、21世紀の幕開けとともに、新時代の到来を予感させた。
※メジャースカウトのスピードガンで158キロを計測。球場の表示は154キロだった

 横浜高(神奈川)時代に151キロをマークした松坂大輔が「平成の怪物」なら、その球速を超えた寺原は「21世紀の怪物」と評された。

 ただ、実際に会った寺原は、シャイで寡黙な、とても優しい高校3年生だった。中学時代は軟式野球部で、自分では「普通のピッチャーだった」と振り返っていた。それが高校に入って能力が一気に開花した。

 急に注目され、メディアの取材が増えていく。その現実に、自分自身がなかなかついていけない......。そんな意味のことを、盛んに口にしては照れていた。こんな素朴ないい子が、いきなりプロ野球の世界に飛び込んで、そのカルチャーショックについていけるのだろうか。そんな疑問を、寺原のお母さんにぶつけてみた。

 その日、「ちょっと変わった取材がある」と知って、グラウンドを訪れていたのだ。

「それも心配ですけど、それより私、隼人があと半年ぐらいで家から出て行ってしまうなんてことが信じられないんです! まだ絶対、手放したくないんです。だって、隼人、私のつくったご飯で大きくなったんですよー!」

 我慢していた思いを、一気に吐き出したような「叫び」だった。

「私の隼人」は、その5カ月後のドラフトで4球団から1位指名を受け、ダイエー(現・ソフトバンク)に入団。「みんなの寺原隼人」になってしまった。

 わかっていても悲しい。さびしい。息子を送り出す「球児の母」の思いが、今でも私の耳にはっきりと残っている。

 あれから25年──。そんな「隼人」は現在、ソフトバンクの三軍投手コーチとして、今度は若い投手たちを育てる側になった。

 そして今夏、母校の日南学園は8年ぶりの甲子園出場を果たした。胸元にエンジ色で力強く刺繍された「日南学園」の筆文字を見るたび、私の頭には、あの日のブルペンがよみがえる。真横から見ていたら、「白線」すら見えなかった快速球。最後の1球をミットの真っ芯で受けたときの、手のひらに残った衝撃。

 そして──。

「ナイス、キャッチャー!」

 25年たった今でも、あの声は、寺原の快速球と同じぐらい鮮明に耳の奥に残っている。


寺原隼人(てらはら・はやと)/1983年10月9日生まれ、宮崎県出身。日南学園高3年夏の甲子園で非公式ながら最速158キロを記録し、2001年ドラフト1位でダイエー(現・ソフトバンク)に入団。その後、横浜(現・DeNA)、オリックス、ソフトバンク、ヤクルトを渡り歩き、NPB通算73勝をマーク。2019年限りで現役引退し、現在はソフトバンクの三軍投手コーチを務めている。

安倍昌彦●文 text by Masahiko Abe

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