名将たちの甲子園初出場物語
西谷浩一(後編)

前編:「俺は甲子園に行かれへん男や...」大阪桐蔭・西谷浩一が"持ってない監督"だった頃はこちら>>

 2005年、大阪桐蔭の3年生にはその秋のドラフト1位でプロへ進むことになる辻内崇伸、平田良介がいた。そこに「無敵の1年生」中田翔が加わった。

指揮官である西谷浩一が語る。

「どうしても甲子園に届かない、つかめないという流れが続いた時に、僕と違って"持ってる男"・中田が入ってきたんです。中田との出会いがなかったら、辻内、平田が3年でそろったあのタイミングでも、甲子園に行けてなかったんじゃないかと思います」

【高校野球】「どうしたらええんや...」 甲子園初采配で追い...の画像はこちら >>

【"スーパー1年生"中田翔が開いた甲子園への扉】

 "スーパー1年生"というフレーズが広く使われるようになったのは、この中田からだったように記憶している。それほど特有の華やかさ、オーラがあった。何より桁外れのパワーとエネルギーがチームを押し上げ、西谷の運命までも切り拓いていった。

 中田が桁違いの二刀流として颯爽と高校球界にデビューした2005年夏、大阪桐蔭は大阪大会を初戦から危なげなく勝ち上がった。

 大阪市立に14対0、守口東に12対2、茨木に9対1、汎愛に10対0。そして迎えたPL学園戦。相手のマウンドには、2年生でエースとなった前田健太が上がっていた。

「万博(万博公園野球場)でね。もちろん、ここが勝負と思って入っていったんですけど、マエケンに(死球を)当ててしまって......。『うわっ!』となったのはたしかでした。あれはね......」

 1対0とPL学園リードで迎えた6回だった。

前田は5回まで、強打の大阪桐蔭打線をわずか2安打に封じていた。ところが、辻内が投じた渾身のストレートが前田の右ヒジを直撃する。場内が騒然となるアクシデント。それでも前田は平然とその裏のマウンドへ上がった。

 だが、直後に平田が試合をひっくり返す2ラン。大阪桐蔭は7、8回にも追加点。前田も9回の最終打席で辻内から意地の一発を放ち、強烈なスピリットを見せつけたが、4対2で大阪桐蔭が勝利した。

「試合が終わって、藤原(弘介)監督のところへ謝りに行ったんです。『デッドボール、申し訳なかったです』と。さすがに無視はされなかったですけど、顔は真っ赤で、怒ってましたね。監督としたら、それはね......。あのPL戦が大きなポイントだったのはたしかで、よく覚えています」

 その後、大阪桐蔭は準決勝で履正社を11対3、決勝では大商大堺を15対3と圧倒。

ついに西谷は、監督として初めて甲子園への切符をつかんだ。

 なかでも中田はおもに5番を打ち、大阪大会7試合で打率.458、2本塁打、チームトップの13打点。投げても14回2/3で17三振を奪うなど、投打でチームを牽引した。

【西谷を襲った甲子園初采配の重圧】

 そして大きな注目を集めて迎えた甲子園初戦の春日部共栄との一戦。待っていたのは、思いもよらない展開だった。

 先発・辻内の制球が定まらない。ストライクを取りにいったところを弾き返され、2回に3失点。3回にも1点、5回にも2点を追加され、降板した。試合後、辻内は「心臓がバクバクして......」「どう投げているのかもわからなかった」と振り返った。初回、スコアボードに「152キロ」と表示され、スタンドがどよめいた。その雰囲気にも「パニックになった」とも言った。

 マウンド上では何度も頬を膨らませ、大きく息を吸っては吐いた。まさに青息吐息だった。

 エースの乱調に、攻撃もかみ合わない。5回表の春日部共栄の攻撃を終えたところで3対6。苦しい展開のなか、ベンチの西谷にも「甲子園初采配」の重圧がのしかかっていた。

「何をやってもうまくいかないなかで試合が進んで、気づいたら折り返しの5回。『どうしたらええんや。選手になんて声をかけたらええんや......』と。これだけみんなで頑張って、やっとつかんだ甲子園が初戦で終わるんか......。焦りしかなかったです」

 そんなエースと指揮官の窮地を救ったのが、中田だった。5回表、3点差とされ、なおも満塁のピンチ。辻内を救援すると、1年生とは思えないボールと堂々たる投げっぷりで後続を断った。

「球場の雰囲気が変わった」

 西谷はそう振り返る。

 そして5回裏、甲子園に快音が響いた。

「先頭の謝敷(正吾)が右中間に強烈な当たりの二塁打を打ったんです。あれでハッと目が覚めたというか、『監督がこんな弱気じゃアカン』と気持ちが入り直したんです」

 すると、大阪大会7試合で75得点、チーム打率.449を叩き出した打線も目を覚ます。一死後、平田が三塁打。中田が三塁強襲安打で続き、米川(千貴)が左翼へ二塁打。さらに辻内が四球を選び、川本(健人)がライトへ犠飛。

 一挙4点の猛攻で7対6。大阪桐蔭が試合をひっくり返した。

「どのタイミングだったかは、はっきり覚えてないですけど、ベンチで『この試合は絶対負けへんぞ!』みたいなことを言ったら、選手が『よっしゃー!』って応えて盛り上がったのは覚えています。ただ、戦術的なアドバイスは何もなくて、『頑張るぞ』『負けへんぞ!』としか言えなかった。

 今の自分なら、もう少し何か言えると思うんですけど、当時は辻内が打たれて、5回になって、『アカン、アカン』『やばい、やばい』となっただけで......。まったく余裕がなかったですね」

【高校野球】「どうしたらええんや...」 甲子園初采配で追い詰められた大阪桐蔭・西谷浩一を救った"スーパー1年生"
2005年夏の春日部共栄戦で勝ち越しの本塁打を放つ大阪桐蔭・中田翔 photo by Sankei Visual

【幻のウイニングボール】

 7回に一度同点に追いつかれたが、その裏、中田が今度は自らのバットで左中間へ決勝本塁打を叩き込み、西谷に勝利をプレゼントした。

 これが、今では意外に思えるほど遅かった、西谷浩一の甲子園初采配、初勝利だった。のちにその事実を伝えると、「そうだったんですか」と驚かれることも少なくないという。

「前に(春日部共栄の監督だった)本多(利治)さんと話をさせてもらった時に、『あれが甲子園初勝利だったの?』と意外そうに言われました。この間、東京ガスにいる中川卓也(2018年に春夏連覇を達成した時の主将)の結婚式に出た時も、『春日部共栄の時に大阪桐蔭戦で投げました』と難波(剛太)くんがあいさつに来てくれて、『覚えてもらっていますか?』と言うから、『よく覚えてるよ。あの試合に先発して、中田と同じ1年生で......』という話になったんです。それで『あの試合、俺の甲子園初戦やってん』と言うと、『本当ですか!?』と驚いてました」

 じつは、この試合を前に選手たちは、ようやく甲子園初采配を迎える西谷のために「勝ってウイニングボールを渡そう」と話していた。ところが、苦しみながらその目標を達成した夜。西谷の部屋を訪ねてきた主将・小林晃徳の表情は沈んでいた。

「試合に負けたあとのような雰囲気で、『西谷先生に話があるんですけど......』と言うから、『どうした?』と聞いたんです。そしたら、『試合に勝ってウイニングボールを渡そうと、みんなで話して頑張ったんですけど、あんな試合になって、最後もバタバタで二死満塁。終わったあと、ボールがどこへ行ったかわからなくなって......』って。申し訳なさそうに言うから、『いやいや、ありがとう。次に勝ったら頼むわ』と言ったんです」

 その5日後。別人のようになった辻内が、藤代(茨城)を相手に大会タイ記録となる19奪三振の快投を演じ、大阪桐蔭も勝利した。

 試合後、西谷は満面の笑みを浮かべた小林から、ウイニングボールを受け取った。ところが帰りのバスに乗ると、西谷のうしろの席に辻内が座っていた。

「おまえ、タイ記録やったってなあ」
「はい」
「ウイニングボールをもらったけど、最後も三振で決めたし、おまえがもらったほうがいいんちゃうか」
「いいんですか?」

 遠慮気味に答えた辻内に、西谷は記念球を渡した。

「それから、あとは誰もくれないんです(笑)」

【甲子園通算75勝の名将が語る原点】

 今や通算75勝。堂々の甲子園歴代最多勝利監督である。しかも、最初の1勝からわずか21年で積み上げた75勝だ。あまりにもハイペースな勝利の積み重ねが、「西谷監督の初勝利はもっと前だろう」という錯覚を生むのかもしれない。

 こちらが持参した2005年夏の甲子園大会を特集した当時の雑誌を懐かしそうにめくりながら、西谷は小さく笑った。

「人のことなら『21年で75勝』と聞くと、すごいと思うんですけどね。自分のことだと思わないですねえ」

 そして不思議なことに、甲子園初采配、初勝利の喜びや感慨を尋ねても、西谷の口から出てくるのは、自らの「未熟さ」だった。

「本当に『どうしよう、どうしよう』ばっかりで、何の策も打てない。言葉もかけてやれなかった。準決勝で負けた駒大苫小牧(南北海道)戦も、完全に監督の力の差で負けたと思っています。もちろん準備はしていたんですけど、試合が始まって動きだすと、駒大苫小牧戦も春日部共栄戦も何もできなかった。うまく選手たちを導いてやれなかった。初めての甲子園ということで思い出すのは、『何もできなかった』という、そのことばかりです」

 話を聞いたのは、この夏の大阪大会前だった。その後、大阪桐蔭は4回戦で敗退。「波乱」と大きく報じられた一戦のあと、西谷はやはり「選手たちを導いてやれなかった」と、自らの力不足を繰り返し口にしていた。

 どれだけ勝っても、どれだけ結果を積み上げても、その思いは変わらない。いや、変わらないからこそ、勝ち続けてこられたのかもしれない。

 大阪桐蔭を常勝軍団へと育てた名将の原点は、2005年夏、甲子園で何もできなかったと悔やんだ、あの日の姿にある。

谷上史朗●文 text by Shiro Tanigami

編集部おすすめ