◆凄惨な愛と国家の論理
一九八六年四月、ウクライナのチェルノブイリ原発で前代未聞の事故が起こった。本書はその大惨事を経験し、苦しんだ人たちへのインタビューをもとに構成されたドキュメンタリー作品である。
原書の出版は一九九七年、その翌年にはすぐに邦訳が出て、日本でも広く読まれてきたが、今回のものはロシアで二〇一六年に出た増補改訂版に基づいた改訳である。時とともに古びるどころか、ますます重い現代性を帯びたという印象を受ける。著者はソ連の人々の苛酷な経験を扱った一連の著作で知られるベラルーシの女性作家。二〇一五年にノーベル文学賞を受賞した。
ここでは主観的なコメントも解説も一切加えられていない。
放射線の危険について何の知識も持たない、素朴な人たちが多い。
しかし、現実は凄惨である。肛門も膣もない、全身が「生きた袋」になって生まれた娘を必死に介護し続ける母親がいる。
つまり、この本は愛についての力強いメッセージでもある。消火のために原発の敷地内に最初に飛び込んだ消防士は、「人間じゃなくて、原子炉」のような体になって死んでいくのだが、その妻は妊娠中の身をかえりみず、最後まで夫にぴったり寄り添い続けた。当然予想できたことだが、赤ん坊は臓器に重い障害を持って生まれ、出生後四時間で死んでしまう。
著者は序文代わりの「自分自身へのインタビュー」で、チェルノブイリ後、風向きが災いして特に大きな被害を受けた隣国ベラルーシの人々は「チェルノブイリ人」となった、チェルノブイリとは「これから解くべき謎」「二一世紀への挑戦」だと語っている。そうであるならば、これは今こそ日本で読まれるべき本ではないか。フクシマ後、謎を解く責任は日本人に渡されたのだから。
【書き手】
沼野 充義
1954年東京生まれ。東京大学卒、ハーバード大学スラヴ語学文学科に学ぶ。2020年7月現在、名古屋外国語大副学長。2002年、『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞、2004年、『ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。著書に『屋根の上のバイリンガル』(白水社)、『ユートピアへの手紙』(河出書房新社)、訳書に『賜物』(河出書房新社)、『ナボコフ全短篇』(共訳、作品社)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)、シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)など。
【初出メディア】
毎日新聞 2021年3月6日
【書誌情報】
完全版 チェルノブイリの祈り――未来の物語著者:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
翻訳:松本 妙子
出版社:岩波書店
装丁:ハードカバー(432ページ)
発売日:2021-02-18
ISBN-10:4000614525
ISBN-13:978-4000614528