死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。

第12回は1933(昭和8)年と1934(昭和9)年。プロレタリア文学の旗手と大正ロマンの美人画家、破滅型の落語家である。





■1933(昭和8)年拷問を描いた作家は拷問で死んだ  小林多喜二(享年29)

 『蟹工船』で知られる作家・小林多喜二の出世作は『一九二八年三月十五日』である。昭和3(1928)年に、日本共産党員らが大量検挙された3・15事件を描いたもので、特高(特別高等警察)による拷問シーンなどが注目された。このことはのちに小林を死にいたらせる悲劇につながるが、ともかく彼はこの作品でプロレタリア文学の旗手となった。この時点ではまだ、大正デモクラシーの余波で左翼的な活動にもそれなりの勢いがあったのだ。







 秋田県の小作農の家に生まれた小林は、北海道の小樽で事業に成功した伯父のおかげで教育機会に恵まれ、文学と労働運動に目覚める。が、その両面で能力を発揮すればするほど、当局からは目障りな存在と化していった。何度も逮捕や検束をされ、やがて命を落とすのである。



 昭和8年2月、築地署に検束されると、拷問を受け、これにより急死。特高はかつて小林に拷問シーンを描かれたことに激しい反感を抱いており、そこに描かれた以上の拷問を行なうことで復讐したかのようだった。死因は心臓麻痺と発表されたが、遺族に返された遺体は明らかに暴行による殺害を示していたからだ。

『われらの陣頭に倒れた小林多喜二』(江口渙)によれば、下腹部から尻、両足の膝にかけては「墨とべにがらをいっしょにまぜてぬりつぶしたような」「ものすごい色で一面染まって」いたという。



 「そのうえ、よほど大量の内出血があるとみえてももの皮がぱっちりと、いまにも破れそうにふくれあがっている。そのふとさは普通の人間の二倍くらいもある。さらに赤黒い内出血は、陰茎からこう丸にまで流れこんだとみえて、このふたつの物がびっくりするほど異常に大きくふくれあがっている」



 母親のセキは「ほれっ! 多喜二! もう一度立って見せねか! みんなのために、もう一度立って見せねか!」と呼ぶかけるなど、気丈なところを見せたが、わが子への思いはもちろんそれだけではない。87歳で亡くなったとき、遺品にこんな言葉が書かれたメモが見つかった。



「あーまたこの二月の月か(が)きた ほんとうにこの二月とゆ月か(という月が)いやな月 こいをいパいに(こえをいっぱいに)なきたい」



 かつて息子とやりとりしたくて、懸命に覚えた文字で書かれたものだ。

その拙いたどたどしさがいっそう、怒りと哀しみを訴えている。



 一方、この一件を指揮した特高部長の安倍源基は容赦ない「赤狩り」で勇名を馳せ、内務大臣まで登りつめた。終戦でA級戦犯の疑いをかけられたが、公職追放で済んでいる。平成元(1989)年まで生き、95歳で大往生を遂げた。



 それに比べ、小林の29年という生涯はあまりにも短いが、平成20(2008)年には代表作『蟹工船』が再注目され、翌年には映画も作られた。戦前の労働問題と、最近のワーキングプアやブラック企業の問題がどこまで同一視できるかはさておき、古い作家が再評価され、読まれるのはよいことだろう。

それが非業の最期を遂げた作家であればなおさら――。







■1934(昭和9)年芸術の勝利か人間の敗北か  竹久夢二(享年49) 桂春団治(享年56)



 美人画といわれて、竹久夢二を想い起こす人は多いだろう。彼はそれだけでなく、デザイナーとしても活躍し、また、その詩にメロディーがつけられた『宵待草』は大正を代表する大ヒット曲となった。



 しかし、元号が昭和に替わった頃から人気が低落。不況と、相次ぐ女性スキャンダルが原因だった。そこで、群馬の伊香保に隠棲しつつ「榛名山美術研究所」を構想して、捲土重来を期すことに。

まずは念願の欧米視察旅行へと旅立ったが、研究所を建てるための資金を使い果たし、かわりに結核という病まで得てしまった。帰国した翌年、49歳で死去することになる。



 そんな夢二を「頽廃の画家」と呼んだのは、川端康成だ。むろん、褒め言葉である。川端いわく「頽廃は神に通じる逆道のようであるけれども、実はむしろ早道」なのだから。それゆえ、こんな奇蹟のようなことも起きた。

川端が夢二の家でその愛する女性(お葉あたりだろうか)を目撃したときの感想だ。



「その姿が全く夢二氏の絵そのままなので、私は自分の眼を疑った。やがて立ち上って来て、玄関の障子につかまりながら見送った。その立居振舞、一挙手一投足が、夢二氏の絵から抜け出したとは、このことなので、私は不思議ともなんとも言葉を失ったほどだった。(略)夢二氏が女の体に自分の絵を完全に描いたのである。芸術の勝利であろうが、またなにかへの敗北のようにも感じられる」



 伝わりにくいかもしれないが、夢二の芸術の本質を言い当てている気がする。



 また、夢二は自らの最期についてこんな希望も語った。



「私は泣きながら生まれた。その時、みんなは笑った。死ぬ時には私、笑っていたいと思う。そして、みんなを泣かせてやりたい」



 気障にも思える美学へのこだわりが、いかにもという印象だ。







 夢二が亡くなった翌月には、落語家の初代桂春団治が56年の人生に幕を下ろした。こちらはさしづめ「放蕩の芸人」だろうか。硬軟自在の芸風と、女性関係や借金、大法螺といったお騒がせぶりで人気を博し、破滅型の天才として伝説化された。都はるみ&岡千秋のヒット曲『浪花恋しぐれ』には「芸のためなら女房も泣かす」と歌われ、野球選手の川藤幸三のように豪快な酒好きというイメージだけで「球界の春団治」と呼ばれた人もいる。



 本物のフォロワーズは、横山やすしや藤山寛美、やしきたかじんあたりだろう。ただ、春団治の死因は胃ガンで、吉本興業を追われたあげく、アル中で死んだ横山ほどの悲惨な晩年ではなかった。



 さて、頽廃も放蕩も、そこそこ裕福な世の中でこそ可能なあそびだ。日本がこのあと、それどころではない状況に突き進んでいくのを見ずに済んだふたりは、案外幸せ者だったのかもしれない。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)