「小学校6年生を2回やった」藤田田、3度の絶体絶命をどう生き...の画像はこちら >>



「絶体絶命のピンチに陥ったとき、私は反発し、発憤し、窮地を脱してきた」日本マクドナルドを創業し、外食産業初の年商1000億円企業に育て上げた伝説の経営者・藤田田は、人生で3度の絶体絶命を経験した。はじまりは中学受験の失敗、小学校6年生を2回やるはめに…そこからの逆転思考を新装版『凡人が億を築く法』(ベストセラーズ)より抜粋して紹介する。





■ピンチのたびに反発心をかきたてる私のやり方



 私は小学校6年生を2回やっている。義務教育の日本では、小学校では落第はまずない。



 それなのに、私は6年生を2回やった。理由は中学受験に失敗したからである。



 中学の入試のとき、私は立派に答案を書いて、合格したと思っていた。ところが、発表を見ると、合格になっていない。ショックだった。自分はもうダメだと思った。それでも気を取り直して、もう1回、6年生をやりたいと学校に申しでた。しかし、学校では落第は許してくれない。



 しかたなく、小学校を転校して、6年生を2回やった。



 20年ほど前に、なぜ、中学受験に失敗したか、その理由がわかった。

当時の小学校の担任のS先生が死ぬ直前の病床で、告白したのである。



 私の母はクリスチャンである。当然、S先生にはつけ届けをしなかった。そんなことなんかせずに、実力でいけという主義だった。ところが、S先生はつけ届けに弱い先生だった。



 S先生は内申書を書くときに、藤田は成績がいいから実力で通るだろうと判断して、内申書をあまりよく書かず、つけ届けのあった、あまりできのよくない子のことをよく書いたのだ。



 それがたたって私は入試に落ち、内申書をよく書いてもらった子がパスしたのだ。



 つけ届けで内申書をよく書いてもらって中学に入った男は、平凡な人生をたどってしまった。そういったわけで、2度、6年生をやったが、通学電車で6年生のときに一緒だった仲間と出会うのは本当につらかった。向こうは中学校の帽子をかぶっているが、こちらは小学校の帽子である。かつての仲間は、相変わらず小学校の帽子をかぶっている私をバカにする。



 そういったときに、私は、こんちくしょう、という反発心をかきたてて、このピンチを乗りきったのだ。

これが昭和14(1939)年のことである。



 昭和19(1944)年に、私は、2度目のピンチに見舞われた。



 その年に、私は松江高等学校に入学したが、10月には体調をくずし、京都大学で診断を受けたところ、肺結核で右肺に鶏卵大の空洞がふたつあるのが発見された。クラスメートに肺結核の男がいて、彼と一緒に生活したために結核がうつったらしい。



 入学時の健康診断ではなにもいわれなかったのだから、わずか6か月間で病気が急激に進んだのだ。



 診断をした京都大学結核研究所の岩井教授は、今ここで棺桶屋に電話をして棺桶の予約をするか、ただちに入院して人工気胸(ききょう)をやるかのどっちかだという。このままでは、あと2か月の命だともいう。



 私は、入院して人工気胸をやったら治るのかとたずねた。岩井教授は、それはわからないが、入院したら治すように全力をあげるという。私はやむを得ずに、即時入院を選んだ。



 入院をしたら、今度は、肛門のまわりに穴があく痔瘻(じろう)にやられた。これは悪質の痔で、放っておくと肛門が全部腐って最後には死んでしまうという。

即、手術ということになった。痔の手術は、したことがある人はわかるだろうが、じつに痛い。



 ところが手術をして1か月ほどたつと、また、腐ってきた。それで、再手術。都合、5回、痔瘻の手術を受けた。



 痔の手術は、痛いうえに恰好も悪い。尻の穴を人に見せるというのは死ぬほど恥ずかしい。しかも若いから、看護婦を見て体に変化が起きないように、シンボルに絆創膏(ばんそうこう)を巻いて足に固定してしまう。まさに、踏んだり蹴ったりである。



 痔瘻はどうにか治ったが、結核は、2~3年は安静にしていないといけないという。松江高等学校は、2年連続落第は放校だという。



 人工気胸というのは、空気を入れて、肺が動かないようにしておいて、そこへ栄養を送り込んで結核を退治するという治療法である。

現在は抗生物質の出現で、人工気胸はやらなくなったが、当時は唯一の治療法だった。



 私は、死んでもいいと思って、学校へでた。医師とは喧嘩別れである。そして松江の日赤に週に一度通って、空気を詰めかえてもらっていた。この人工気胸が私には効いた。現在、会社の健康診断を受けても、痕跡がないほど回復している。



 当時は学徒動員で松江高校の生徒は安来の日立製作所に駆りだされていた。そこへ、リュックサックをかついででていった。



 監督の藤野という先生が私を見て、いやに痩せているがどうしたとたずねた。



 事情を話して、2年連続して落第し、せっかく入った松江高校を放りだされるのはイヤだからでてきたというと、そりゃあ無茶だ、出席扱いにしてやるから寮で寝ていろといってくれ、この2度目のピンチもなんとか切り抜けることができた。





■絶体絶命だから意欲的になれる



 3回目のピンチはどうか。



 当時、私は藤田商店でPGAというゴルフのクラブを扱っていた。

PGAというのはアメリカのプロフェッショナル・ゴルファーズ・アソシエーションの略で、PGAのクラブは、その協会が認定しているクラブである。



 したがって、PGAのゴルフクラブは飛行機で輸入しても、羽が生えたように売れていた。



 しかし、日本製のいいクラブが安く出まわるようになると、膨大な在庫をかかえて、売れば売るほど赤字という状態になった。



 そういったときに、マクドナルドの話があり、私はPGAのゴルフクラブを捨てて、マクドナルドに切りかえた。



 藤田商店のメインバンクはS銀行である。私は、メインバンクもなにも、取引銀行は1行だけと1行主義をとっていた。当然、マクドナルドに切りかえるに当たって、サポートの依頼にいった。



 ところが、S銀行は、藤田さんが貿易をやっているのは応援しますけど、水商売はダメですという。



 私は、アメリカのマクドナルド本社に、1行主義をとっているのでS銀行以外は取り引きをしていない、メインバンクはS銀行だといっている。そのメインバンクが応援してくれないとなると、いかに私に信用がないかということになるから立場がなくなる。だから、全取り引き額の1割だけでいいから、S銀行でやってほしいと頼み込んだ。その1割の取り引きについては120パーセントの保証もする。

そうもいった。120パーセントの保証というのは、100万円借りるのに120万円の預金をすることである。S銀行は中小企業に対しては120パーセントの保証を要求する銀行だった。



 私にすればメインバンクにフラれたのでは信用問題だから、2回にわたって足を運び、取り引きを頼み込んだ。



 応対した常務は、藤田さん、何度きたって返事は同じですよ、当方は水商売とは取り引きをしませんという。私はマクドナルドはアルコールを売っているわけじゃないし、水商売ではないと思っている。しかも、藤田商店はS銀行と20年間取り引きをしてきて、ただの1回も迷惑をかけたことはない。



 それなのに、2回頼みにいって、2回とも返事はノーなのだ。私は1行主義をとっておけば、いざというときに銀行が助けてくれるときいていたのだが、S銀行の場合はそうではなかった。



 私は常務にいった。



 「私も男です。2回もフラれた銀行には、絶対に応援を頼みにはまいりません。そのかわり、将来、マクドナルドが成功したときに、おたくのほうが取り引きをしてくれといってきてもお断りします」



 「けっこうです」



 「それじゃ、さよなら」



 私はS銀行を飛びだして、絶対にマクドナルドを成功させてやると心に誓った。そして、1行主義をただちにやめて、第一勧銀(現・みずほ銀行)と三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に応援の依頼にでかけた。第一勧銀では、のちに、専務となった小穴雄康さんが当時の課長で、マクドナルドをよく研究していて、やりましょうといってくれた。



 三和銀行も、佐藤達也さんという支店長が、やはりマクドナルドを研究していて、応援しましょうといってくれた。



 しかも、第一勧銀も三和銀行も、やるからには当方1行だけにやらせてほしいという。なんのことはない。マクドナルドを研究していなかったのは、メインバンクのS銀行だけだったのだ。



 私は、S銀行でひどい目にあっているので、2行でお願いしますと融資を折半してもらった。その後、太陽神戸銀行(現・三井住友銀行)が加わり、現在、3行がマクドナルドのメインバンクである。



 ちょうど、アメリカのマクドナルドの本社と日本マクドナルド設立の話を進めている真っ最中にS銀行に融資を断られたのが、3度目の大ピンチだった。銀行の融資が受けられなければ、話はご破算になり、私は破滅するほかはなかった。



 ふり返ってみると、こうした絶体絶命のピンチに陥ったとき、私は反発し、発憤し、窮地を脱してきた。もうダメだと思って、あきらめて、自分で自分の命を絶つ方法はとらなかった。それがよかったのだ。





■狭い視野で見るから悲観してしまうのだ



 ピンチを脱して考えてみると、自分では絶体絶命だと思っていたのが、じつはそうではなかったということに気がついた。



 と同時に、事実はひとつであり、その事実をどうとらえるかが大切であるということにも気がついた。中学校に不合格になった事実もひとつだし、高校に入学した年に肺結核になったという事実もひとつだし、頼りにしていたS銀行が融資を断った事実もひとつである。



 もしも、私がそれらの事実を5度ぐらいの狭い視野で見ていたら、悲観したかもしれない。しかし、私は360度、視野を広げ、あらゆる角度からながめようと努力してきた。



 そうすると、人生これで終わりという考えには至らない。いくらでも生きていく道が見えてくるのだ。



 人間はとかくひとつの事実を正面からだけ見つめてとらえようとする。狭い視野でしか見ようとしない。上から見たり、下から見たり、裏から見たりしようとはしない。



 正面からだけ見て、その事実は丸いとか四角とか判断している。しかし、事実は丸でも四角でもなく、三角なのかもしれないのだ。360度の角度から見なければ、事実は三角である、ということには気がつかないのである。



 狭い角度から事実を見て、これはもう死ぬしかないと思って自殺する人は少なくない。しかし、人生は、自分で終わりにするのではなく、他人によって終わらせられるものなのである。交通事故とか病気などで、おまえは死ぬといわれて人生を終わる。それが人間であって、けっして自分からこれで人生を終わりにするという必要はないのである。



 悪い事態はけっして永久につづくものではない。いつまでも夜はつづかない。夜のつぎには朝がくるものなのだ。



 棺桶に片足突っ込んで、もう終わりだと思っても、なお挑戦する。それが人生なのだ。そういう精神で事実をとらえていけば、絶対に失敗はない。



 私がその見本である。



 入試に失敗したから終わりだとか、結核になったから終わりだとか、銀行に融資を断られたから終わりだといって自分で人生を終わりにはしなかった。



 終わりではなく、そこが新しい人生のはじまりだと思って頑張ってきた。



 終わりではなく、終わりだと思ったときがはじまりなのである。そういうふうに頭を切りかえるべきなのだ。



 私は、毎月のように日本とアメリカを往復しているが、あるとき、気流が悪く、飛行機が激しく揺れ、ギイギイと不気味な音をたてた。



 私は、飛行機が墜落するのではないかと思って青くなった。すると、隣の席の男が話しかけてきた。なぜ、そんなに青い顔をしているのかという。



 飛行機が落ちるかもしれないからだと私は答えた。



 すると、その男は、バカなことをいうな、あなたが飛行機を落とすのではなく、神様が落とすのだ、こわがる必要はないという。飛行機が揺れなくても、神様があなたを不必要だと思えば落とすし、必要だと思えば落とさないはずだ。だから、心配することはないという。



 あとで、その男は牧師だとわかったが、人生というのは大きな宇宙の力で生かされているのであって、洋の東西を問わず、みずから敗北を宣言して、人生を終わりにすることはないのである。





■弁解するヒマがあったら解決策を考えろ



 あるアメリカの有名なジャーナリストに、マクドナルドの仕事をしてきて、いやなことがありましたかと質問されたことがある。私は、なにもないと答えた。



 これが私の仕事だと私は思っている。そうすると、いやなことはなにもないのだ。



 マクドナルドでは5万人の人間が働いている。そうすると、いろんなトラブルがある。トラブルが起こると、たいした問題ではなくても社員は息せききってご注進にかけつける。



 そんなとき私は、ご注進の前に、どうしたら解決できるか、その方法をさがしたほうがいいという。



 なにかが起こったとき、日本人は、なぜ、それを解決するのが不可能かということを説明するのはうまい。しかし、どうすれば解決できるか、その方法をさがしだすのは下手である。だからいつも、なぜ解決できなかったかを弁解する。



 人生というのは戦争と同じで、負けてからどんなに立派な理論づけをしても意味はないのである。そんなことをするよりは、なにもしないほうがまだマシである。



 負けは負け、ゼロはゼロ。ゼロはいくら足してもゼロに変わりはないというのが、私の考えである。



 成功するには、積極的な姿勢を常に取りつづけることが肝心である。消極的な生き方では負けるだけである。日本酒が焼酎にやられている理由を、もう一度考えてほしい。積極的な姿勢をもたなければ、なにをやってもダメなのである。



 私は人生にあった3回のピンチを、常に積極的な姿勢で乗り越えていった。



 今、私のことを外食王という人がいる。人からそういわれるまでになった私の生き方の秘密は、常に積極的な攻めの姿勢にある。



文:藤田田





《『凡人が億を築く法』より構成》

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