AV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも早大卒業とともに現役を引退。その後、文筆家「神野藍」として活動し、著書『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』を上梓した。
【凍らせていた記憶】
黒々と光る石には、書き慣れた苗字が刻まれていた。上着の隙間を抜けていく風がどこか冷たくて、思わず身震いしてしまう。慣れない手つきで火をつけると、仏間で嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔を掠め、先端が赤から白に変わっていくのをただただ眺めていた。
ふと目が覚めると、シミひとつない白い天井が目に入った。微かな動きに反応したのか、布団の中で丸まっていた犬が這い出てくる。踏みつけられる重みで、私はようやく夢を見ていたと気がついた。
昔から、よく夢を見る。それもひどく何かを伝えたがっているようなものを。胸元に妙なざらつきを覚えて枕元に置いてある端末に触れたが、いつもの日常と変わらない通知だけが残されていた。誰かが手の届かない場所に行っていないと分かると、脈打つ鼓動は少しずつ落ち着きを取り戻していった。起き上がり一番近い窓を開けると、朝の冷たさが部屋に流れ込んでくる。
ホームに降り立つと見慣れた景色と共に、凍らせていた記憶が私の中に溶け出してくる。いくら見えている景色に変化があろうと、過去の私が今の私の手を引いてくれるようで、何遍も通った道を車で走り始めた。普段流すはずのプレイリストではなく、子供の頃に聴かされたアルバムが耳に届いていた。ビルが消え、家が消え、風景が新緑に埋め尽くされていく。新しい風景に目を輝かせるパートナーを横目に、私はただ機械的にブレーキとアクセルを交互に踏み込んでいく。
【閉じ込められていた水槽】
気がつくと、いとも容易く私を閉じ込めていた水槽に辿り着いた。交わさないといけないはずの言葉が行き場を失ったように喉元に停滞し始めて、酸素が徐々に薄くなる。私が過ごした箱は、どこか友達の実家のような居心地の悪さが漂っていて、口から出る言葉も自然と他人行儀さが滲み出てしまう。鏡のように潤んだ瞳で「今、仕事何しているの」と投げかけられた質問に、「作家」とすんなりと答えたとき、一本の線が引かれたような気がした。
遅咲きの桜が舞い散る中、少し前に遠いところへ行ってしまった犬に手を合わせ、私を縛り付けていた家の歴史に手を合わせた。ずらりと並んだ戒名を眺めていると、後ろからパートナーが私の名前を呼ぶ声で、ようやく私の意識が戻ってきた。
底に沈んでいた名前のつけられない感情たちも、縛りついていた過去の私も、光の中に静かに消えていった。私が従うのは血ではなく私の魂で、帰る場所はここではなく今の私が作りあげた場所。
新幹線を降りると、いつも通りの高層ビルの景色が目に入った。私は大きく息を吐き出し、日常へと帰った。
文:神野藍
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